紬「SAW」

15 8月, 2011 (19:38) | けいおん! | By: SS野郎

5 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:11:39.57 ID:daISRcm70
 律は目を覚ましてすぐに、驚愕の声を上げた。
寝起きはそういい方では無いが、
目に飛び込んでくる情景が脳を一気に覚醒させた。
眠った場所と起きた場所が違えば、眠気など一瞬で飛ぶ。
左足首に鉄の輪が嵌められていれば、尚の事だ。
 その鉄の輪は鎖に繋がっていた。
鎖の先を目で追うと、床に打ち込まれた小さな鉄の輪を通っている。
その鉄の輪には、有刺鉄線が幾重にも巻かれていた。
律は鎖に沿って、更に目を先へと向けた。
そこには、右足首を律同様に拘束されている澪の姿が映った。
「澪っ」
 反射的に恋人の名を叫び、澪に駆け寄る。
名前を呼んでも反応を返してこない澪に胸騒ぎを覚えたが、
顔を覗きこんで安堵の息を漏らす。
「眠ってるのか……」
 それでも一応、慎重に外傷の有無を確認する。
怪我の無い事を確かめると、肩を揺さぶりながら叫んだ。
「澪っ、澪っ、澪っ」
「んっ?り、律ぅ?」
 澪は眠たげに目を擦り、覚醒し切っていない虚ろな目を向けてきた。
「起きたか。大丈夫か?気分悪くないか?」
「何言って……って、何っ?」
 澪は自分を取り巻く異様な状況に気付いたのか、頓狂な声を上げた。

ソウ 【廉価版1,890円】 [DVD]

6 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:12:50.55 ID:daISRcm70
「私にもさっぱりだよ。目が覚めたらこうなってた」
 律は周囲を見回しながら言った。
2メートル四方はあろうかという四角い空間だった。
その内、3つの辺は変哲の無い壁だが、
残りの一つの辺は壁にしては妙な造りだった。
二つの壁が左右から合わさって出来たような微かな隙間が、中央に走っている。
それは宛ら、取っ手の無いドアに見えた。
「律、悪ふざけは止せよ」
 澪の口調はやや怒りを帯びていた。
どうやら、律が仕組んだ悪戯だと思っているらしい。
状況を見ればそう考えるのも無理は無い、それは律にも理解できる。
そして、悪戯であればどれだけ良かったかと、律自身思っている。
「残念ながら、悪ふざけの類じゃねーよ。
さっきも言ったけど、私自身何が起こってるか理解できてないんだ」
「本当か?」
「本当だって。てゆーか、どうしてこうなったか。確か昨夜は……」
 突拍子も無い場所で目覚めたせいか、記憶が混乱していた。
自宅以外の場所で過ごした憶えはあるが、それが何処だったかよく思い出せない。
だが、少なくともこのような場所で過ごした憶えは無かった。
「ムギの別荘に泊まったんだよ。
その流れで、こういう悪戯を律達が仕組んだんだと思ったけど」

8 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:14:14.76 ID:daISRcm70
「ああっ、そうだっ。ムギのとこ泊まったんだっけ。
と、なるとムギが仕掛け人か?いや、唯辺りも噛んでるかもな」
「唯と梓は居なかっただろ?私と律だけが、ムギの別荘に行ったんだよ」
「そっからしておかしーじゃん?何で唯と梓、来ないの?
実は来てるんだよ、きっと。
私らがこのビックリな悪戯のターゲットで、唯とムギと梓が仕掛け人って事だ」
「まぁ、唯と梓に隠れる必要性があるのか分からないけど、その推理は正しそうだな。
本当にお前が噛んでないなら、だけどな」
 澪はまだ律を疑っているらしかった。
日頃の行いを思えば、それも無理からぬ事だと律自身が痛感している。
だが今回は、本当に絡んでいない。
「いや、本当に私関係してないっての」
 律は溜息を吐くと、視線を上に向けて叫んだ。
「ムギーっ。唯ーっ。梓ーっ。悪ふざけが過ぎるぞー」
 彼女達の声は返って来ず、代わりに律の声が虚しく反響した。
「ちっ、無視しやがって。何処かで見てるんだろ……」
 律は視線を上に向けたまま、観察した。
唯達の姿を見つける事はできなかったが、代わりに気になる物を幾つか捉えた。
プラスチックに守られたディスプレイと、こちらを向いている複数の大きな管がそれだった。
二つとも律達から相当に離れて、その姿を覗かせている。
その周囲には薄暗いライトが灯り、律達を照らす役目を果たしていた。

9 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:14:29.50 ID:/5dEcBCv0
ムギの拷問SS思い出すなあ

10 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:16:14.53 ID:daISRcm70
 そして、その更に遥か上に天井があるのだろう。
暗くて見通せないが、天井部分は不自然なくらいに高い。
(いや、違う……)
 律は気付いた。
地面から二メートル程上の壁際と、そこから先の壁に小さな段がある事に。
まるでそこにあった天井──というよりも蓋──を外したかのようだった。
 律は中央に小さな線状の隙間を形作っている壁へと、もう一度視線を走らせた。
続いて、その左右を見回す。そして、理解した。
(そうか……分かったぞ。今私達が居る場所が)
 そこまで思考した時、澪が驚愕に満ちた声を上げた。
「って、律」
 その声に引き摺られるように、律は視線を向けた。
澪は唖然とした表情を浮かべ、指先を律の後方へと向けている。
そこは、中央に微かな隙間が浮かんでいる壁の反対側である。
「なっ」
 振り返った律の口からも、驚愕に染まった声が漏れた。
澪の指し示す壁際の床に、包丁が二つ置かれているのだ。
鎖と澪以外に注意を払っていなかった為、後方の床の違和には気付いていなかった。

13 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:18:52.74 ID:daISRcm70
「何なんだよ……。っとに悪趣味な冗談だ」
 律は悪趣味な冗談と言ってみせたが、本心では悪趣味だとしか思っていない。
冗談であるとは、そろそろ思えなくなってきていた。
「本当に、何なんだよ……」
 澪も律の言葉を復唱してから、続けた。
「それ以前に、此処は何処なんだよ。どうして、こんな事になったんだよ。
昨夜はムギの家に泊まったはずだ。それがどうして、こんな事に……」
「ここが何処かは、もう分かってる」
 律がそう返すと、澪は目を見開いた。
「ど、何処なんだっ?」
「具体的な地名だとか、或いは家からの距離だとか、そういう事は分からない。
分かったのは、この空間の名称だよ」
「な、何なんだよ……。
まさか、墓場だとか比喩めいた事言う心算じゃないだろうな?
予め言っとくけど、それ、全然上手くないからな?」
「んな事言うかよ」
 律は、中央に線上の隙間を走らせる壁を指差した。
正確には、右端寄りの一面に指を向けている。
 その指先に釣られるように、澪の視線が動く。
「あっ」
 澪も気付いたようだった。
「分かったか?ここ、エレベーターの中だよ」

14 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:19:56.25 ID:daISRcm70

*

 律の指が示す先にあるパネルには、
『開』『閉』『開延長』といった文字や数字の書かれたボタンが並んでいる。
律も見慣れている、エレベーター特有のパネルだった。
中央に走っていた微かな線も、エレベーターの扉の構造を表していた。
だが律がショッピング等で乗るエレベーターに比して、随分と広い。
加えて、デザインも洒落たものではなく、酷く無骨なものだった。
剥がされた天井から受ける印象だけではなく、
床や壁の造りからして装飾性が微塵も感じられない。
客を迎えるものでは無く、業務用エレベーターなのだろうか。
そしてパネルの数字を見る限り、此処は少なくとも3階まではある建物らしかった。
 律は立ち上がると、『開』と書かれたボタンを押す。
予想していた事だが、反応は無い。
「やっぱり駄目か」
 剥がされたエレベーターの天井部分に一瞥を加えてから、律は呟く。
「壊れてるのか?」
「閉じ込められてるんだろ」
 律は溜息を吐くと、扉に手を掛けた。
取っ手が無い平面という力を加え辛い構造ではあるが、それでも手動で開こうと試みる。
「あっ、私も手伝うっ」
 澪も加勢してくれたが、やはり扉は動かなかった。
「やっぱ無理か……」
 律は諦めたように溜息を吐く。

15 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:20:31.59 ID:VTQPGpaW0
いいね

17 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:22:01.35 ID:daISRcm70
「そんな……。じゃあ、どうやって帰るんだよ?
扉が開かなきゃ、帰れないだろっ?」
「開いたところで、帰れないだろ?ほら」
 律は足を振って、拘束している鎖を鳴らした。
「いや……鎖は、ほら、あの鉄の輪を床から引き抜けば……。
あの輪を通ってるんだから、あれさえ引き抜けば……」
「それで二人三脚、素晴らしい発想だけどな。
どうやって誰が抜くんだ?」
 律は鎖を通している鉄の輪を指差す。
否、輪を覆っている有刺鉄線を指差す。
「それに、どうせ床の裏側には返しとか付いてるんでしょ。
抜けっこ無いって」
 律がそう続けると、澪は顔を青褪めさせて叫ぶ。
「誰かっ」
 澪は扉の前まで駆け寄ると、激しく叩きながら続け様に叫んだ。
「誰かっ、助けてっ。聞こえたら、助けてっ。誰かー」
 誰かが側に居たとして、決して助けはしないだろう。
恐らく誰かは、この近辺に居るはずだと律は思っている。
だがそれは、きっと律達を閉じ込めた側の人間だ。
「誰かっ誰かっ、助けてっ、お願いっ」
 半狂乱に扉を叩き続ける澪を見ていられず、律は澪の肩に手を掛けながら言う。
「落ち着けっ。落ち着けって、澪。
そんなに手を乱暴に扱うなよ。お前が手を傷めたら、誰がベース弾くんだよ」
「ベースっ?ベースだって?」
 澪が咄嗟に振り返った。
「そうだよ。お前はHTTのベーシストだろ?」
「この状況下で、ベースなんて弾けるかっ。そもそもベースなんて何処にある?
ああ、そうさ、家さ。家に帰らなきゃ、そもそも音楽なんて弾けないだろっ?」

18 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:23:41.92 ID:daISRcm70
「扉叩いたって、大声上げたって、家には帰れないよ。
落ち着いて、誰かが助けに来てくれる事を待とうよ。
まだ、唯やムギの悪戯だって言う可能性も……あるワケだし……」
 自分でも信じていない悪戯の可能性を、律は口にする。
そのような苦し紛れを、澪は一蹴した。
「こんな悪質で手の込んだ悪戯、いくら唯やムギでもやると思うのか?」
「いや、万が一って事も」
「そんなの、期待できるかっ」
「助けこそ、期待できないよ」
「そんなの……やってみなきゃ……」
「誰かが扉の向こうに居たとして、或いは声の聞こえる範囲に居たとして。
それはきっと、私達を閉じ込めた人間だよ。こんな事するからには、目的がある。
目的を達する為、側に留まっている事はあり得る。
そんな人間が助けると思うか?
もし助ける可能性があるとしたら、唯達の悪戯だった場合だけだよ。
同情誘われてやり過ぎた悪戯だと反省して助ける、そのケースだけだよ」
 澪はもう一度だけ、強く扉を叩いて叫んだ。
「くそっ」
 それ以上、澪は扉を叩こうとはしなかった。

19 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:24:45.31 ID:daISRcm70
 澪にしては珍しく口汚い言葉だった。
そう律は思い、冷静さを欠いている姿に幾許かの危機感を覚えた。
尤も、律自身にしても、いつまで自分が平静を保てるか自信が持てなかった。
澪を窘めた今にしても、既に心が折れそうだった。
『ご機嫌は如何?』
 その時、室内に人間の声とは思えない、無機質な声が響いた。
澪の声でも無ければ、勿論律の声でも無い。
『こっち、こっち』
 声は上から聞こえていた。
声の発生源を求めて、律は視線を上へと向ける。
先程見つけて気になっていたディスプレイに、不気味な人形の姿が映し出されていた。
声はそこから響いてくるらしかった。
「何だよ、あれ……」
 澪の震えた声は、律の心情を表したものでもあった。

20 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:26:11.84 ID:daISRcm70

*

 ディスプレイに映し出された人形は、
顔の左側が澪を模して造られており、右側が律を模して造られている。
タキシードに身を包み、胸元には青と黄色の混じったリボンが付けられていた。
「おい、何が目的でこんな事するんだっ」
 不気味な造形に気圧されつつも、律は勇気を振り絞って叫んだ。
『君達とゲームがしたい。その為に、ゲームルームに招待した』
「ゲーム、だって?」
 律は訝しげに呟いてから、人形に向かって言う。
「ゲームとやらに参加する心算は無いぞ。今すぐ帰してよ。
そもそも、招待以前に誘われた憶えなんて無いからな」
『拒否権は無い。だから誘わずに攫った。
薬を嗅がされた記憶は、ショックで消えているのか。クロロホルムは凄いね』
 その話を聞かされた今となっても、律の記憶は蘇ってこない。
それがショックのせいなのか薬のせいなのか、律には判別が付かなかった。
「大体、何をやらせる心算だよ……」
 律は諦め気味に呟く。
拒否権が無いであろう事は予想できていたが、それでも失意が沸いてきていた。
『ゲームのテーマは、絆。二人の絆を確かめさせてもらいたい。
ルールは簡単明瞭。1時間、そこで耐えてもらうだけ。
それが勝利条件だ。
但し』
 律は身構えた。居るだけで終わるはずが無い、その予感があった。

21 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:26:26.09 ID:vgURsoJ+O
りっちゃんまじりっちゃん

24 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:28:21.31 ID:daISRcm70
『この画面の脇に幾つかホースがある。そこから水を注がせてもらう。
40分程度で水面が2メートル40センチの高さに達し、
後は制限時間の残りまでその高さから減らないように注水する。
一応、天井付近にも強力な目張りはしてあるが、
それでもドアの隙間等からの漏れは完全に防げない。
その漏れをフォローする為の、注水だと考えてもらえればいい。
制限時間の1時間が過ぎれば、速やかに救出を行う』
 淡々と告げる人形に対し、澪は血の気の引いた顔を向けていた。
律は対照的に、怒りを露わにして叫ぶ。
「ふざけるなよ……死んじまうだろっ」
『さて、ここで生き残る為のヒントをあげよう。
まず一つ目。二人を結ぶ鎖の長さは、1メートル10センチ。
自分の身長と合わせれば、
一人だけなら水面から顔を出して呼吸し続けられる。
だが、二人同時に呼吸はできない長さだ。
一人で空気を独占したければ、置いておいた武器を自由に使えばいい』
 包丁の事を言っているのだろう。
(殺しあえってか?誰が、そんな要求乗るか)
 律は胸中で憎々しく呟いた。
『ヒント二つ目。中央の輪を抜こうなどとは思わない事だ。
助かる上で、それは不正解。裏に返しを付けている。
到底、抜く事などできない。
ヒント三つ目。包丁で足首を切断しようなどとは思わない事だ。
出血多量で死ぬ。尤も武器、包丁で自殺すれば、もう片方の人間は助かるがね。
そして、最後』
 焦らすような間を置いてから、人形は続けた。

26 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:29:59.50 ID:daISRcm70
『二人とも助かる方法はある。それは至ってシンプルな事だ。
既に気付いているかもしれないくらい、簡単に分かる事だ。
難解な話じゃない、その答えに辿り着くのは容易だ。
このゲームのテーマ、絆。その絆を見せてくれ。
二人の間に真の絆があれば、二人とも助かる。
では、15分後に注水を始める。そこから制限時間のカウントはスタートだ。
それまで作戦会議でもしていればいい。
話は以上だ』
「ま、待てよっ」
 律は咄嗟に叫んだ。
「お前、一体誰なんだよ?何がしたいんだよっ」
『言ったはずだ、君達とゲームがしたいと。
ゲームの目的も、君達の絆を確かめる事だと』
「ああ、言ってたな。でもお前が誰かは聴いてないぞ。
それと、ムギはどうしたっ?私達を攫ったってのは聞いた。
でも一緒の別荘に泊まっていたムギ、あいつはどうしたんだっ?」
 律と澪をゲームに招待する事が目的なら、
二人を攫う上で紬は障害になったかもしれない。
二人を攫って監禁した今となっても、
自由にしておけば警察等に相談される恐れがある存在だ。
そう思うと、紬の安否が気遣われた。

28 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:30:54.61 ID:daISRcm70
『彼女に付いては、死んではいないとだけ言っておく。
ゲームに勝ち残った時に、彼女がどうなったか教えてやろう』
 ディスプレイが暗くなった。
「生きてはいるんだ、な」
 安心していいのだろうか。
人形の思わせぶりな発言から察するに、
生きてはいても何らかの危害は受けているようだった。
『ツムギソウ』
 紬の安否に気を揉んでいる律の耳に、無機質な声が届いた。
「えっ?」
 律がディスプレイに目を向けると、再び人形の姿が映っていた。
”罪無偽装”と書かれた看板を首に掛けている。
『ツムギソウ、それが私の名前。
ムギソウと呼んでくれても構わない。
それでは、健闘を祈る』
 その言葉を最後にディスプレイから人形が消え、無機質な声も途絶えた。

29 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:32:05.72 ID:daISRcm70

*

「おいっ。まだ聞いてない事があるぞ。
制限時間が過ぎた時、排水って何処から行うんだ?
それと、本当に一時間だけ耐えればいいんだな?ムギソウ、おーい」
 律が呼びかけたが、反応は無かった。
一旦ブラックアウトしただけの先程とは違い、今回はもう応答終了らしかった。
「ちっ。さっきと違って、もう姿は見せないか」
 律は憎々しげに呟いた。
「な、なぁ、律。ど、どうしよう?早く助かる手段、考えないと」
 澪の声は不安に満ちていた。
「いや、それに付いては、もう見当が付いてる」
「ほ、本当かっ?私達二人とも助かる手段が、か?」
「ああ。ただ……」
 律は顔を曇らせた。
果たしてこの案でいいのだろうか、その不安があったのだ。
「ただ?何か問題でもあるのか?取り敢えず提案してみろよ。
それで、問題点を考えてみようよ」
 澪が急かしてきたので、律は取り敢えずその答えを口にしてみる事にした。

34 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:33:44.59 ID:daISRcm70
「そうだな……っていうか、冷静になれよ。
澪って私より頭いいじゃん?だから、冷静にさえなればすぐに気付けるよ。
いいか?鎖の長さは110センチで、私の身長は154。澪が160くらいか?
水面の高さが240。二人同時には無理でも、片方だけなら息継ぎができる」
「ああ、その通りだ。さっき、ムギソウが言っていた事だな」
「うん。でさ、この鎖の範囲内でなら、移動は自由じゃん?
つまり、水が満ちても、交互に息継ぎしてれば、二人とも助かると思うんだけど。
初めて会う二人ならともかく、私と澪だよ?昔からの親友で……そして恋人だ。
信頼関係もあるんだから、予め交互に息継ぎするって決めとけば、助かりそうなんだけど」
 澪が目を見開いた。
「そうだよ、その通りだよ。交互に息継ぎしてればいいんだ。
本当に冷静さを欠いていた。恥ずかしいよ」
 澪は頬を赤らめた。
「いや……でもさ、本当にこれでいいのかな?」
 律はその案に自信が持てていない。
「何だ?何か問題あるのか?」
「ああ。簡単過ぎるんだよ。普通、こんなの気付くだろ」
「私は気付けなかったけどな」
 澪は苦笑を浮かべた。
「いや、澪はほら、動揺してたし。でも私が言わずとも、すぐに気付いたと思うよ。
とにかく、ここまで仕掛けをしておきながら、
こんな簡単な方法で二人助かるってのがちょっと気に懸かってる。
ゲームの謎解きにしては、簡単過ぎる」
 律の懸念はそこだった。そう、簡単過ぎるのだ。
果たしてこの程度の難易度でしかないゲームを行う為に、
ここまで大仰な仕掛けを凝らすだろうか。
律は顎に指を当てた。

39 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:36:04.60 ID:daISRcm70
「何言ってるんだよ。ムギソウも言ってただろ?
シンプルだって、簡単だって、容易だって。
それに、ゲームのテーマ、絆だったよな?
息継ぎを交互に行えるかどうかで、絆を確かめようとしているとすれば、
テーマにも沿うぞ」
 澪は答えを得た事で余裕を取り戻したのか、楽観的な意見を口にしていた。
だが、冷静とは言い難い、そう律は思った。
冷静と楽観は違う態度なのだから。
 だが、律とて代替の案は浮かんでこない。
それに、澪の意見は的を射ている部分も多々あるのだ。
少なくとも、ムギソウのヒントやゲームのテーマと、辻褄は取れている。
何より、澪を不安がらせたくは無かった。
先程までの動揺していた姿に比べれば、今の楽観的な澪の方がまだ良かった。
だから律は胸中に不安を抱えつつも、肯定の言葉を返す。
「まぁ、確かに、な」
「あ、でも律……。ゲームにクリアしたとして、私達は帰してもらえるのかな?」
 澪の口調が、再び不安に震えていた。
ゲームはクリアできる前提で、澪は考えているらしい。
「それに付いては、大丈夫だと思うよ。
さっき人形を登場させてただろ?音声だって、機械通して加工してた。
口封じに殺す心算が無いから、犯人推測させる材料提供してないんじゃね?」
「随分、楽観的なんだな」
 澪にそう指摘され、律は少し愉快な気分になった。
ゲームに対する澪の姿勢を律は楽観的だと思っていたが、
澪は状況に対する律の姿勢を楽観的だと思っている。
「ふふっ、私達、本当にいいコンビだよ、澪。ふふふっ」
 堪えきれずに笑いを零すと、澪が呆れたように言う。
「何が可笑しいんだよ……」
「さってね」

41 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:37:16.66 ID:daISRcm70
「全く……。少しは真剣に考えろよ。
本当に、このゲームの設定通り、絆を確かめる事が目的だと思うか?
絆を確かめる、なんていうのはきっと口実だよ。
或いは、そういうシチュエーションの設定。
どうせ本来の目的は、スナッフビデオの撮影辺りだろ?
なら、私達はゲームの成否関わらず口封じに……」
 澪はそこまで口にしてから、身を震わせた。
「どうせ殺す心算なら、こんなゲーム組む必要なんて無いだろ。
もっと派手に確実にやっちまえばいい。
まぁ、スナッフの可能性だって排除できないけどさ。
それでも殺しはしないと思うよ。
ゲーム設定のスナッフなら、ゲームのクリア未クリアに関わらず殺してしまうと、
観る側は興醒めだよ。
口封じで考えるなら、殺すよりも金を握らせた方が、捜査の手は伸びにくいだろうし」
 そもそもスナッフビデオだとするならば、
ゲームの条件が優しすぎると律は思った。
スナッフビデオの舞台裏など、律は当然知る由も無い。
だが簡単に双方助かる手段が用意されていては、
そもそもスナッフビデオの用を為せるか疑わしかった。

43 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:38:04.27 ID:daISRcm70
 それに律は、一つの疑いを抱いていた。
──自分の知り合いがこのゲームを組んだのでは無いか──と。
勘の範疇は出ておらず、具体的な根拠にも欠けている。
見ず知らずの人間が不作為に自分達を選んだとは考え難い、
という消去法を基にした疑いでしかない。
「そうか、そうかもな……。ところで、律」
 律の言葉に安心したのか、澪の声には力が戻っていた。
「何だ?」
「もうすぐ注水が始まるけど、その前に服、脱いだほうが良くないか?
水を吸って重くなると、体力的にもきつくなるだろうし」
「それもそうだな」
 律は同意した後で、諧謔的な調子で付け加えた。
「スナッフからポルノにシフトだよ。満足か?ムギソウ」

45 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:39:09.02 ID:daISRcm70

*

 上半身を脱ぐことは容易かった。
しかし、足首に鎖と繋がる鉄の輪がある関係上、
パンツルックの下半身は双方共に苦労した。
ズボンを足首まで下ろす事はできた。
そこから先が問題だった。
足首を拘束する鉄の輪と鎖が障害になり、
ズボンを脱ぎきる事ができない。
「これ、邪魔になるよなぁ」
 律が鬱陶しそうに言うと、澪も応じた。
「鎖もその分、短くなるしな。まぁ、この程度なら問題無さそうだけど」
「いや、相当邪魔になると思うぞ。
勿体無いけど、ふざけたプレゼント活用させて貰おうぜ」
 律は包丁を手に取った。
「おいおい、帰りはどうするんだ?」
「側面だけ切り裂けば、ショーツの大部分は隠せるでしょ?
それに、どうせ服もボトムも水浸しだ。着て帰ろうとは思えなくなるよ」
「しょうがないな」
 澪も包丁を手に取っていた。
苦労はしたが、程なくズボンの側面を切り裂いて、
足首から解き放つ事に成功した。
 二人とも、胸部と性器を隠す下着、そして靴下のみの姿となった。
「あーもう、本当にポルノって感じだよ。
お互い、勝負下着めいてるしさぁ」
 律は呆れたように口にする。
律は上下ともに、レース刺繍の編まれた黄色の下着だった。
澪の下着も上下ともにレース刺繍が編まれており、色だけが律と違い水色だった。

49 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:40:15.61 ID:7XBMB7b40
黒幕ムギは甘え

50 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:40:20.35 ID:daISRcm70
「なぁ、律。そんな下着付けてきたって事は、期待してたのか?
ムギの別荘だってのに、大胆だな」
「お互い様だろ」
 律はそう返した後で、紬の安否が再び気になって呟く。
「そういや、そのムギ。大丈夫かなぁ」
「随分とムギに拘るんだな?そんなに心配なんだ?」
「そりゃ、友達だし、なぁ。
大変な状況に巻き込まれてると分かれば、心配にだってなるよ」
「私達だって、充分大変な状況下に置かれてるけどな」
 澪は溜息を吐いた。
「あー、そりゃそーだな」
 律も溜息を吐く。
自分の置かれた状況を改めて考え、不安が擡げた。
「でも、ゲーム自体は大丈夫だろ。不安なのはその先で。
私は律を信じてるから、交互の息継ぎだってきっと上手くいくよ。
……こんな時だから言えるけどさ、私はずっと律一筋だ。
律だけ愛してきた。律だけ愛してる。律だけ愛していく。
だから、きっと乗り越えられると信じてる。
律は?律も、私の事だけ愛してくれてる?」
「お前っ、それ所謂死亡フラグってヤツじゃね?
何か、最期に言う言葉みたいだぞ」
「答えてよ……不安なんだ……」

51 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:41:14.48 ID:daISRcm70
「不安になんか、なるなよ。きっと乗り越えられるから。
私だって、澪一筋だ。澪だけ愛してる。
澪だけ愛してきたし、愛していくよ」
 澪は微笑を浮かべた。
「有難う、律」
「何、私の方こそ、好きって言ってくれて有難かったよ」
 澪の微笑が儚げに見えて、律は少し不安になった。
澪は律の為に、大切な何かを
──例えば自分の命でさえ──
犠牲にできるのでは無いか、と。
澪は自分が死ぬ事で、律を助けようと考えやしないか、と。
だから律は付け加えた。
「絶対、死ぬなよ。二人で助かろう」
「分かってる。二人で助かろうな」
 約束を交し合った直後、再び無機質な声が室内に響いた。
今回は声だけで、ディスプレイには何も映されていない。
『今より、注水を始める。ゲーム及びカウント、スタート』
 声は途絶え、ホースから勢い良く水が吐き出されてきた。

53 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:42:13.70 ID:daISRcm70

*

 いざ水が放出されると、澪の表情に不安が再度浮かんできた。
律とて不安だったが、励ますように言う。
「大丈夫だよ、な?」
「ああ、分かってる。でも、手、繋いでいい?」
「いいよ」
 その提案は律にとっても有難かった。
注がれる水を前にして、弱気な気分が擡げていたのだ。
『いいの?澪、居るんでしょ?』
 その時、再びスピーカーから声が響いてきた。
今度は無機質な声では無かった。人間の声だった。
それも、聞き覚えのある声だ。
『いいって、いいって。バレなきゃ浮気じゃねーし。
いちごだって、一回限りの心算なんでしょ?』
 続いて聞こえてきた声は、律自身の声だった。
律は青褪めた視線を、スピーカーへと向けた。
ディスプレイには、律とクラスメイトである若王子いちごの姿が映されている。
「なっ」
 律は絶句した。
「何だよっ、あれはっ」
 隣からは、澪の怒号が聞こえてくる。

55 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:43:45.35 ID:daISRcm70
『一回限りとは、限らないけど。律が望むなら、何回でも……』
『だーめだよ。澪ったら古風でさ。浮気とか許さないタイプのヤツなんだよ』
 二人以外には誰も居ない公園で、律といちごの唇が重なった。
『なぁ、早くいちごの家に行こうぜ?』
『そんなに私を求めてるの?』
『いや、澪に見つかったらヤバイからさ』
『帰り道、こっちじゃ無いんでしょ?』
『万が一って事もあるし。
他のクラスメイトとかに見つかって報告されるリスクもあるし』
『分かった。でもそこはね、早くお前を貪りたいから、って。
嘘でもいいから言って欲しかったな』
『じゃあ、言うよ。早くいちごを貪りたいから』
『前言撤回。やっぱり嘘と分かっていたら、虚しいだけね。
だから早く家に帰って、激しい行為で忘れさせて?
澪に負けてる女だって事』
『負けてないよ。つーか、負けないように頑張って、私を悦ばせてみな?』
『うん、頑張る。いっぱい感じて?』
 ディスプレイの中、律といちごが二人肩を並べて歩いてゆく。
その二人の背を追う事無く、画面はフェードアウトしていった。

56 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:45:09.48 ID:daISRcm70
 律の手を握る澪の握力は凄まじく、律は堪らず声を上げた。
それでも、澪の顔を見る事は憚られた。
「み、澪っ。手、手、痛いって」
「律……」
 澪は握力を緩めずに、怒りに満ちた声で呼びかけてくる。
律は震える声で返答した。
「な、何?」
「私の台詞だ。何なんだ?今のは」
 律は返答に窮した。
どう答えても、澪の怒りを静める事は不可能なように思える。
「答えろよっ」
 澪の怒号が、放水の音を掻き消して響く。
律が沈黙を続けていると、澪が再び口を開いた。
「黙ってるって事は……今流れた映像は、本当にあった事なんだな?」
 否定できなかった。
CG技術を駆使して作られた映像、などという嘘は通用しないだろう。
「でも……かなり前の事だし」
 律は目を逸らしたまま言った。
「私達が付き合った後の話ではあるんだろ?」
 澪の握力が更に増した。
「痛いっ、痛いって、澪っ」
 律は手を振って逃れようとするが、敵わなかった。
「私はもっと痛い。律に裏切られたんだからな……」
「おまっ、状況考えろって。悪かったって思ってるよ。
でもこの話は、後だ後。無事帰った後で、じっくり話し合おうよっ」
 律は尋常では無い痛みに耐えながら言う。
浮気の追及を免れる一時凌ぎだけが、提案の目的では無い。
実際に、ゲームから意識を逸らしてしまう事は、危険だと思っていた。

57 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:46:23.10 ID:BUoBTz5U0
ぐああ

59 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:47:26.44 ID:daISRcm70
「分かったよ……。後でじっくり、話を聞かせてもらうからな」
 律の提案も尤もだと思ったのか、澪は握力を緩めてくれた。
律はその機を逃さず、澪と結んでいた手を解いた。
「律……?何で、手を解くの?」
 澪の口から、訝しむような声が発された。
「あ、いや。痛かったからさ。ちょっと、手冷やしたくなって」
 既に膝まで達している水に手を付けながら、律は言う。
だがそれは繕う為の言葉と仕草でしか無い。
本当は、再び澪が激して握力を込めてくるのではないか、
という恐れ故だった。
否、予感故だった。
「私とは手を繋ぐの、嫌になったのかと思ったよ。
いちごとは仲良く手を繋いでたのにね。ごめんな、いちごと違って馬鹿力な女で」
 澪は手を解かれた事が不満なのか、皮肉を放ってきた。
「いや、そーいうワケじゃ無いからさ」
 律は冷やしていない方の手を振って、その皮肉を躱す。
 その時、再びディスプレイに映像が映し出された。
水面に反射された像で、それを知る。
「今度は何だよ……」
 律は澪がそうしているように、視線を上に向けた。
そこには、律と梓の姿が映されている。
律達が部室として使っている、第二音楽室が舞台だった。

63 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:49:00.58 ID:daISRcm70
『駄目ですよ……。私、澪先輩に憧れてるんです。
憧れの人を、裏切るような真似……』
『先にモーション掛けてきたのは、梓の方じゃん?
今更澪の名前出すとか、ずりーって話』
『でも……澪先輩は、私を妹みたいに可愛がってくれてます。
裏切るなんて……』
 鮮明に覚えている、迷いを繕っている梓の顔。
それを間近で眺めたあの時は、赤面を抑える事に苦労していた。
梓がそれ程、可愛く見えたから。
 画面越しに眺めている今は、
どれ程苦労しても青くなる顔色を抑えられなかった。
澪がそれ程、怖く思えるから。
『モーション掛けた段階で、裏切りは既に完了してんだよ。
ほら、お前の誘い通り、私は乗ってきたぞ?いや、狙い通りと言うべきかな?
意図通りの罠に嵌めておきながら、今更澪を言い訳に逃げて、
その気になってる私を生殺しとかエグくね?』
『その気、って、具体的に何を想定しているんですか』
『分かってるでしょ?やる気。いや、やられる気?』
『後悔しますよ?私は、本気、ですからね』
 画面の中で、梓に圧し掛かられた律がソファへと押し倒されていた。
『こんなトコで?梓ったら、大胆』
『言ったはずです。本気、だと』
 自分が梓に唇を貪られる映像から、律は意識を反らして視線も逸らす。
新たに視線を向けた先は、画面を食い入るように見詰めている澪の横顔だった。
未だかつて見た事の無い、憤怒の形相が滾っている。

67 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:50:30.52 ID:daISRcm70
 その表情に律が心底から震撼した時、澪が横目で一瞥を投げかけてきた。
動作は一瞬で終わっているが、それでも律の印象に焼き付いた。
律を睥睨した瞳には、尋常ならぬ憎しみが篭っていたのだから。
律は慌てて澪から目を逸らして、再度画面へと視線を向けた。
『んんっ。梓ぁ』
『はっんっ、律先輩……律せんぱぁい……律、律、律ぅ』
 かつて繰り広げられた、肉体の合わさる光景。
それがディスプレイの中で、繰り返されている。
艶美な声を上げながら、二人の身体は激しく擦れ、縺れ合う。
 澪を横目で盗み見ると、震える拳を握り締めてその場面を凝視していた。
迫り来る衝動を抑えようと、歯を食い縛って唇をきつく結んでいる。
『ごめんなさい……澪先輩……澪お姉ちゃん……ごめんなさい……』
 澪に謝りながら、律を貪り続ける梓。
謝る姿は聖者のようで、そして貪る姿は獣のよう。
『澪の名前出すんじゃねーよ、萎えるだろーが』
 聖者を窘め、野獣を礼賛する律の声で映像は終わった。
再び暗くなるディスプレイ。
音声だけが、もう一度リピートされて狭い室内に反響する。
それは映像を編集した者の悪意を醸し出す、醜悪な演出だった。
『澪の名前出すんじゃねーよ、萎えるだろーが』
 反響が鳴り止まぬ内に、澪の咆哮が重なった。
「律ぅぅぅぅぅっ」

69 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:51:42.97 ID:daISRcm70
 叫びながら、澪は動き出していた。
凄まじい勢いで首を律に振り向け、太腿まで達している水に構う事無く突進してきた。
「ひっ」
 律は短い悲鳴を上げると、逃れようと試みた。
こんなに狭い空間内で逃れきれるはずも無い、それは律とて理性では分かっている。
しかし、恐怖を訴える本能には逆らえなかった。
「私から逃げるなっ」
 叫んだ澪が自らの足元へと、手を潜らせた。
途端、左足首を強く引かれたように感じ、律は体勢を崩した。
崩れた身体を立て直せないまま、水面へと転倒する。
(ああ、そうか。鎖を引っ張ったのか。
二人を結び付けてるもんな。お前から、逃げられないよ)
 上がる飛沫の中、律は見ていた。
自分に向かって伸びてくる手、
その向こうに浮かぶ怨嗟を漲らせた澪の表情を、見ていた。

71 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:53:07.87 ID:daISRcm70

*

 ムギソウはカメラに映る二人を見て、歪んだ笑みを浮かべた。
梓と律が身体を交わらせた映像を見た澪は、律に掴みかかっている。
二人の絆も大した事が無い、その満足感を感じていた。
 そもそも、律は澪と付き合っていながら、他の女とも関係を持ってきた。
律と澪は仲睦まじく見えて、片方は移り気だったのだ。
 このゲームを始める前から結果など分かっていた。
この二人は、きっと勝てないと。
「私は見てきた。二人の絆が、薄っぺらいものである事を。
そして今、私は見ている。二人の仲が瓦解する様を」
 ムギソウはそう呟いて、愉悦を漲らせた笑い声を上げた。

72 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:54:31.97 ID:daISRcm70

*

 澪の腕に掴まれた律は、その拘束を逃れようと足掻いていた。
だが体格に劣る律の劣勢は、覆しようも無い。
「律っ、律っ律っ。梓、梓ぁぁ」
「落ち着けっ、落ち着けって、澪」
「落ち着いていられるか。梓は私にとって、妹も同然だった。
律は、絶対に信頼できる恋人だと思ってた。
その二人に、同時に裏切られたんだぞっ」
「昔の話だって。今はもう、梓とは何もしてないよ。
それに、そう何度もヤったワケじゃないし……」
 腕力で敵わない以上、言葉で懐柔を図るしか無かった。
だが、律の言い訳は逆効果だった。
「開き直るなっ」
 澪の怒号が響く。
「いや、開き直ってるわけじゃなくてっ。
今は、ほら。澪しか愛していないって事が言いた」
「今は?
じゃあ、昔は?そして、これから先は?」
 澪は眦を吊り上げて、律に迫ってくる。
「昔だって、澪が一番好きだったよっ。
ただ、他にも味見したってだけで。
これから先だって、澪だけが好きだからさ」
「それを、信頼しろとでも言うのか?
裏切られてズタズタにされた私に、更に信じろと?
お前はさっき言っていたな?私だけ愛してきたと。
それは……嘘だった。この期に及んで尚、お前は……嘘を吐いていたんだ。
私は決死の覚悟で律だけ愛すると言った……なのにお前は……
軽い気持ちで、嘘を……」

73 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:55:51.39 ID:daISRcm70
「いや、嘘も方便ってヤツでさ。
ほら、過去の武勇伝なんて知らせない方がい」
「嘘も方便だとぉっ?」
 律の言葉は、澪の咆哮によって遮られた。
「お前……じゃあ、じゃあっ。私だけ愛しているってのも、方便か?
私だけ愛していくって言っていたのも、方便かっ?
この場だけ助かりたくて言った、都合の良い出任せなのかっ?」
 澪は続け様に言葉を放つと、律の首へと手を伸ばしてきた。
「止めろっ。澪っ。そうじゃないっ、そっちは本当なんだっ。
都合が良いかもしれないっ。でもっ、でも信じてくれっ」
 首へと伸ばされてくる澪の手を必死に払いのけながら、
律は断続的に言葉を放つ。
しかし、澪の攻撃が止む事は無かった。
「お前が手を出した梓は、梓は……。
私の事、本当に慕ってくれていた。私の事、姉のように……。
お姉ちゃん、って言ってくれた事まであったんだっ。
その梓まで、毒牙にかけてたのかっ」
 猛る澪の攻撃は激しさを増し、律の身体に圧し掛かって体重を傾けてくる。
律は何度も水中へと頭を沈められながら、必死の思いで言葉を紡いだ。
「ぷはっ、澪、聞いてくれっ。私は……」
「黙れっ。そんな梓と私を、お前は引き裂いたんだ。
可愛い妹だったはずの梓が……今や憎き恋敵だ。
お前のせいで、お前のせいでっ」
「澪っ、げほっ、話、聞いてくれっ。
今はそれどころじゃっ、無いんだ。後で浮気に付いては、話、聞くから」
 頭が水上に浮かぶ度に言葉を放っているので、律の声は途切れ途切れだった。
また、何度も水を飲んで、その度に咳き込んだ。
それでも律は、足掻く事を止めなかった。

76 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:57:20.74 ID:daISRcm70
「それどころ?私にとっては、これが一番重要な話なんだっ。
律の事に関する話こそが、一番重要なんだっ」
 二人、激しく動き回ったせいか、胸部を覆う下着が外れていた。
しかし、露わになった胸を隠そうとはしなかった。
お互いによく知っている相手の身体であり、羞恥は薄い。
だが、律は敢えて指摘した。澪の隙を見つけたかった。
「澪っ。その前にっ、一ついいか?
胸っ、胸見えてるぞ。ブラジャー、外れたから……」
「それがどうした?今更、それを恥じる関係に戻りたいとでも?」
 予想通り、澪は律に対して裸を見せる事に抵抗は無いようだった。
だが、この場にある視線は律のものだけでは無い。
それを思い出させるべく、律は上を指差しながら言う。
「私達、きっと監視されてるぞ。
じゃなきゃ、絆を確かめるなんて、できる訳無いからな。
お前の胸、誰かに見られてるんだって。
しかもさ、遠くから監視されてるんじゃないって、多分。
場所が遠けりゃ、ゲーム進行に支障が出たときリカバリできないし。
近くに居るヤツに見られてるんだって」
 澪はそれでも動じなかった。
「ああ、そうだろうな。
律の言う通り、企画した奴はきっとすぐ側でゲームを見てるんだろう。
で、それがどうした?そんな話で、話題を逸らそうとでも思ってるのか?
大体、私の裸を見られて嫌なのは私本人より寧ろ……
本来なら、恋人のお前のはずだろうっ?」
 怒りが羞恥を凌駕しているらしかった。
平素から恥らいやすい澪にしては、珍しい事である。
それ程までに、律の浮気に対して怒りを抱いているのだろう。

78 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 22:59:01.09 ID:daISRcm70
 だが律は諦めずに澪の発言から話題を繋げて、
怒りを逸らそうと試みる。
「いや、澪。それはお前にしても言える事でさ。
私の胸だって……見られてる。
恋人のお前は、その事に嫌な気持ち抱いてくれないの?」
 澪は一瞬だけ、戸惑うような表情を見せた。
だが、すぐに憤怒へと転じる。
「調子がいい事を言うなっ。確かに嫌だよ、胸が張り裂けそうな程に嫌だ。
でもな、その嫌な事をお前はやったんだ。
いちごや梓に、私以外の人間に、その胸を見せたんだっ。
それを今になって、嫌な気持ちを抱いて欲しい、だと?」
 律を組み敷く澪の力が、更に増した。
次に水中へと沈められたら、もう浮かんで来れないかもしれない。
それを予感させる程、執念めいた澪の力は強かった。
 律は迫る危機感の中、賭けに出た。
まずは澪の言を肯定し、そこから怒りを静めるピンポイントな言葉に繋げる手法。
一旦は澪が怒りを向ける対象、即ち自分の勝手な態度を認めるという危険な行為だった。
だが、その後に放つ言葉が効果的な程、リスクの見返りは大きくなる。
「うん、それでも嫌な気持ちを抱いて欲しいよ。
だって、私は未だに澪の物だから」
 律の言葉を受けて、澪の力が緩んだ。
その機に乗じて、律は畳み掛けるように続ける。
「それにさ、私だって嫌だよ?澪が私以外のヤツに、胸とか見せるなんて」
 澪は更に力を緩めて、言い聞かせるように言葉を放ってきた。
「本当にそう思っているのなら、私の痛みだって分かるはずだよな?」
「ああ、分かる。本当に悪いことをしたって、思ってる」
 律は神妙な顔で返すと、すぐに別の話へと話題をシフトさせる。
澪の怒りが落ち着きを見せたこの機会を、逃す心算は無かった。

80 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:00:28.55 ID:daISRcm70
「なぁ、澪。
スナッフビデオの撮影目的で攫ったと、澪はそう推理してたよな?
でもそうだとすると、変だと思わないか?
私達の事情に詳しすぎる。そりゃ、スナッフの標的を選んだら、
その身辺調査くらいはするだろうさ。
ただ、調査の域を超えているし、個人的な事情に立ち入り過ぎている。
多分これ」
 律はその先を続ける事を躊躇ったが、結局言った。
「私達の周囲の人間が組んだゲームだぞ」
 澪も既にそう思っていたのか、顔に表れた驚きは少なかった。
「だとするなら、誰なんだろうな」
 澪は深い溜息を吐く。
律も溜息を吐きたい気分だった。
自分の周囲の人間が、悪意に満ちたゲームを仕組むとは考えたくも無い。
だが現実には、律の浮気を知っている人間なのだ。
(誰なんだよ……。
澪ですら知らなかった私の浮気、それを知ってしまうだなんて……。
それこそ数は限られてくるぞ。そもそも、これ一人の仕業か?
複数人で組んでるとしたら、一体私は何人、大切な人から裏切られるんだよ)
 律の脳裏に、親しい友人や知人達の顔が浮かぶ。
深い情報に触れたという事は、それだけ深く関わっているという事だ。
律は深い関係にある疑いたくない者達にさえ、猜疑の目を向けざるを得なくなっていた。
 そして続け様に、律の溜息を誘う事象が起こった。
「お、おい律……」
 澪に声を掛けられるまでもなく、水面に映った色彩を通じて律には分かっていた。
「今度は何だよ……」
 堪えきれず、律は溜息を漏らしながら視線をディスプレイへと向けた。

83 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:02:20.16 ID:daISRcm70

*

 澪と律が落ち着きを取り戻した事に、ムギソウは少しだけ驚いた。
二人が組み合った段階で、このゲームは早くも律や澪の敗北で終了すると思っていた。
 澪の盲信と律の隠蔽で繋がっていた脆い絆だと、ムギソウは考えていた。
故に、律の隠蔽が晒され澪の盲信が裏切られれば、絆は切れるはずだった。
浮気映像を二人の前で見せ付ける事が、その二つを同時に達成するトリガーとなる。
だが実際には、二人は持ち直した。
「脆い絆であっても危機に瀕して切れないのは、
長く続いてきた関係だから、という事ね」
 ムギソウは自分に言い聞かせるように呟いた。
「この世はそんなもので溢れてる。慣習はそう簡単には覆らないから。
非効率な組織や仕組だって、長く続いていれば改めるのが難しいように。
人間関係も長く続いていれば、
双方嫌いあっていてもそう簡単には切れるものじゃない。
お互い不満を抱えつつも離婚しない夫婦が、その典型例。
この二人だって長く一緒に居たからこそ、
決定的な対立を回避してゲームオーバーを免れた」
 そもそもムギソウ自身にせよ、その慣習によって敗れた事があるのだ。
正確に言えば、澪が律と共に過ごした時間の長さ故に、恋心を破られた。
ムギソウは画面に映る澪へ向け、哀れんだ視線を向けた。

85 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:03:52.64 ID:daISRcm70
「罪が無いのは分かってる」
 続いて、律へと恨みの篭った視線を向けた。
「有罪なのは、こっちだって事も分かってる。
私を裏切って捨てたこっちが悪いって事、分かってる。でも……」
 律を見詰めるムギソウの表情が蕩けた。
頬は上気し、瞳が潤む。
ムギソウは画面に映る律の姿に舌を這わせながら、言葉を紡ぐ。
「でも、未だに好き。未だに、嫌いになりきれていない。
まだ、愛してる」
 ムギソウは愛憎渦巻く想いを込め、律の姿に沿って画面を一頻り舐めた。
続いて、澪へと視線を向けた。今度は哀れみなど表情に篭っていない。
嫉みを表情に滾らせ、妬みを視線に孕ませている。
「だから、貴女が憎い。そう、これは八つ当たり。
分かっていても、憎い憎い憎い憎い憎い憎い」
 呪詛の言葉を繰り返して、協力者に思いを馳せた。
それはムギソウに、このゲームの計画を持ちかけた者だった。
練りこまれた指示、そして場所の選定から一部道具の提供まで行ってくれた。
見物する為のカメラはムギソウが用意したが、
武器や睡眠薬、拘束する為の錠は協力者の用意だった。
そして、律の浮気現場を押さえたビデオディスクまでも。
 その協力者の正体を、ムギソウは知らなかった。
メールや郵便、コインロッカーを通じて指示や道具の提供を受けていた。
それでも、動機は何となく分かっている。
ムギソウと同じく、澪への嫉妬や律への憎悪だろうと。
二人の仲を引き裂くようなゲーム設計が、それを思わせた。

87 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:04:46.94 ID:daISRcm70
 そこまで推理できれば、その協力者も律と恋仲になっていた者が連想される。
即ち、律の浮気相手の誰かでは無いか、と。
もしかしたら、ビデオディスクに収められた者の中に居るのかもしれない。
律に裏切られ捨てられた、ムギソウの仲間が。
「そう思ったからこそ、このゲームに私は乗った」
 ムギソウは呟いて、手元の人形へと視線を向けた。
ゲーム説明を行うライブ映像で、自身の代理として出演させた人形である。
左側に澪を模し、右側に律を模したこの人形は、ムギソウの自作だった。
「憎しみ、代行してあげる」
 ムギソウは新たに動画を再生させ、エレベーター内のディスプレイに送信した。
それもまた、律の浮気映像だった。
程なくして、再び摩擦する二人の姿を見る事ができるだろう。
『今度は何だよ……』
 律の呟きが、マイクを通して聞こえてきた。
「今度は誰だよ、が正解だろうに」
 ムギソウは独り言で返して、手元の人形に爪を立てた。
二人がゲームに敗れて絆が失われた段階で、この人形を真っ二つに切り裂く心算でいた。
律と澪が別れて死にました、という象徴的な意味を込めて。
協力者と自分、二人分の憎しみも込めて。

89 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:06:25.52 ID:daISRcm70

*

 ディスプレイに映っているのは、紬と律の姿だった。
律はやるせない気分になる。
折角澪の怒りを鎮めたと思ったら、再び怒りを再来させかねない映像が届けられた。
苦労して切り抜けた窮地に、再び突き落とされる脱力感が律を苛む。
 尤も、この展開も予想しておくべきだったのかもしれない、律はそう思った。
ムギソウもカメラを通じて、律と澪のやり取りは逐一把握しているのだろう。
だからこそ、最悪のタイミングで新たな映像を届けてきた。
『ねぇ、りっちゃん。私だけ愛している、そう言って?』
『えー?いやお前、前も言ったと思うけどさ、私の本命は』
『その先は言わないで、その名前は出さないで。分かってるから。
嘘でいい、嘘でいいから言って欲しい。一時でいい、酔わせて』
『お前だけが好きだよ、ムギ』
 澪が凄まじい勢いで律を睨み付けてきた。
律を苛んでいた脱力感が瞬時にして消え、改めて恐怖が訪れる。
『ありがとう、りっちゃん……ありがとう』
『喜んで貰えて、私も嬉しいよ』
 映像の中、律は紬を抱き寄せて耳元で囁いた。
紬は頬を染めて、更なる要求を口にする。
『りっちゃん……誰よりも、私の事が好きだと言って?』
『誰よりもムギの事が好きだよ』
『嘘でも嬉しいな。うん、これは嬉し涙』
『この瞬間だけは、嘘じゃないけど?』
『もうっ。優しいんだか残酷なんだか……』
『言葉はどっち付かずかもね。でも行為は、優しくするよ』
 画面に映っている映像は、紬の涙を拭く律の姿だった。
続いて、紬の制服のリボンを解き、ブラウスのボタンを外してゆく姿。

92 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:07:48.18 ID:daISRcm70
 律は画面を見詰めながら、この時の事を思い出していた。
思い出した瞬間、凍りつく。
『その前に……もう一言だけ、言って欲しい事があるの』
『何?』
『その……澪ちゃんより、私の方が好きだと言って?』
 画面に映る律は、意地の悪そうな笑みを浮かべていた。
その過去の自分に向かって、独り言のように呟きかける。
「止めろ……」
『その名前、出して欲しくなかったんじゃないの?』
『りっちゃんの意地悪っ。ねぇ、お願い……』
 紬の瞳は潤んでいた。再び涙が零れ落ちる前にと、あの時、律は──
「止めろよ……」
 叫びたかったが、出てきた声はか細かった。
凍りついた口が、思うように動かない。
 対照的に、映像の律は流暢に告げていた。
『澪よりムギの方が好きだよ』
 律は反射的に澪へと視線を向けた。
途端、澪と目が合う。
「み、澪。あれは……その場の……空気を読んだと言うか……」
 稚拙な言い訳に対し、澪は冷たい声で応じてきた。
「つまり、この先も空気とやらを読んで、
私以外の人間と寝る可能性があると言う事か」
「ち、違っ。反省してる、本当に反省してるよ」
「一体何人と交わって、私を裏切った?
いつまでも信じてやると思っているのか?」
 澪は言うなり、腰を屈めて上半身も水中へと潜らせた。
すぐに身体を起こした澪の手には、鈍く光る包丁が握られている。
「澪っ?」
 律は思わず頓狂な声を上げて、澪の手元を見つめた。

95 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:09:42.42 ID:daISRcm70
「許さない……」
 映像はまだ続けられているのか、未だ光彩が水面に投げかけられている。
ディスプレイを見上げなくても、聞こえてくる声で分かった。
律と紬が交わっている光景が、展開されているのだろう。
降ってくる激しい喘ぎ声が、それを証している。
「み、澪……冗談は止せよ」
 律は後退りしながら言った。
既に腹部までを覆う水など意に介さず、澪が距離を詰めてくる。
その表情を見れば、冗談では無い事など一目瞭然だった。
「許さない……」
 水面から光彩が消失した。ムギソウが映像の再生を止めたのだろう。
白熱灯の灯りのみとなった空間の中、澪の声が静かに沁みてゆく。
「悪かった、本当に謝る。だから、な?澪……。
許してよ、お願い、許して……」
 謝罪を繰り返すその最中、スピーカーから一言だけ再生された。
律の投げたあの言葉が、空間の中を激しく響き渡ってゆく。
『澪よりムギの方が好きだよ』
 リピートされた律の声に──
「絶対に許さないっ」
──澪の咆哮が続いた。

97 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:11:12.29 ID:daISRcm70

*

 包丁を構えて迫る澪に、律は瞬く間に隅へと追い詰められた。
「澪……落ち着けって。一緒に助かろうって、約束したじゃん」
「お前だって、私を裏切ったくせに」
「裏切ってない……あいつ等とは、身体だけの関係だ。
心の中ではずっと、澪だけ愛してきたよ」
「ふざけるなっ。そんな言い訳、誰が信じるか。
信じたとして、身体を他の人間に許した事は罪だ、そして裏切りだ。
だからさ」
 澪はもう、間近まで迫っていた。
「死んで、二度と浮気できないようになれよ。
私もすぐに後を追うから」
 既に包丁の届く範囲にまで、澪は迫っている。
このまま言葉で説得を試みても、延命になるかさえ微妙だった。
この絶体絶命の状況を前に、律は意を決する。
(澪、ごめんっ)
 律は胸中で澪に詫びると、体当たりを敢行した。
身体の半分以上が水に浸かっている為、勢いは無かった。
だが、虚を衝かれた澪は、律の体当たりを受けてあっさりと姿勢を崩した。
今まで逃げていた律が、突如として向かって来た事に驚いたのだろう。
律はこの機を逃さず、包丁が握られている澪の手を掴んだ。

102 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:13:06.93 ID:daISRcm70
「離せ、律っ」
「お前が落ち着いてからだ」
 激しい水飛沫を上げながら、二人組み合う。
初めの内こそ、虚を衝いた律が優勢だった。
だが、次第に体格の差が現れ始めた。
体格で劣る律は、徐々に押し戻されてゆく。
「律っ。手を離せっ」
「お前が包丁離してからだ」
 押されつつも、律は掴んだ澪の手を決して離さなかった。
「律ぅぅ……」
 怨嗟の唸りを上げながら、澪は律を振り解こうと激しく暴れた。
手を解きそうになる度、律は何とか持ち堪えてきた。
だが、激しさを増す澪の動きに、限界を感じ始めてもいた。
 律は脚を澪の身体に絡めて、動きを制限しようと試みる。
しかし、すぐに脚は振り解かれてしまった。
 弱まっていく握力に反比例して、律の焦燥は高まっていく。
このままでは手が振り解かれて、凶器を持つ澪の手が自由になってしまう。
そうなれば、今度こそ終わりだろう。
手が振り解かれる前に、暴れる澪の動きを緩めなくてはならなかった。
 近づく限界の中、律の脳裏で案が唐突に閃いた。
実行へ移す事が躊躇われる案ではあるが、背に腹は変えられない。
(もう、限界に近い。何とか動きを止めないと……。
澪の動きが激しくて、今にも手が滑りそうだ。
不本意なんだけど……ごめんな、澪)
 律は片脚を上げると、澪の下着へと足先を掛けた。
(このまま下ろせば……太腿が拘束される)
 律の思いついた案とは、それだった。
即ち、下着を下ろして太腿を拘束する事で、澪の動きを止めようとする事だった。
澪の今の勢いなら、急に脚が縺れれば転倒する事も充分に考えられた。
あわよくば、その機に乗じて包丁を奪い取る心算で居る。

106 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:14:51.24 ID:daISRcm70
 しかし、目論み通りには中々いかなかった。
相手が暴れている為、下着に爪先を掛けてもすぐに振り解かれてしまう。
限界を訴える手を叱咤激励しつつ、律は何度も試みた。
暴れているとはいえ、腰は水中なので成功確率が絶望的という訳では無い。
律はそう思いつつも、巧くいかない事に苛立ちと焦燥を募らせてゆく。
 律は再び、足先で澪の下着を挟む事に成功した。
振り解かれないよう、力強く足の指で布地を掴み込む。
そして振り解かれないうちにと、素早く強く下着を下げた。
 巧くいかない焦燥からか、律は力が入り過ぎていた。
そして、澪は動き続けている。
結果、下がった下着は拘束具の役割を果たす事無く破れた。
(しまっ。もっと慎重にゆっくりと、やるべきだったか?)
 律はそう思ったが、すぐに考え直す。
慎重にやっていれば、また振り解かれて終わっていた事だろう。
結局、律の案は名案では無かったのだ。
思いついた案を唯一救いに至る方法だと信じ、躍起になって試していたに過ぎない。
溺れる者の前では、藁でさえ浮き輪に見えるように。
 しかし、澪の動きは止まっていた。
呆けた顔付で、自身の下腹部、その更に下を見詰めている。
そこには、黒々と靡く毛に覆われた性器があった。
その露出は澪にとっても、前後不覚に陥る程のインパクトがあったらしい。
律は狙っていた身体的拘束は果たせなかったが、
僥倖にも精神的拘束という予想外の成果を得られた。
 勿論律に、この機を逃す心算は無い。
澪の手を捻って、包丁を奪い取ろうと試みる。
だが、その刺激を受けて、澪も我に返った。
澪の手に再び力が篭り、律の試みは惜しくも失敗した。

109 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:16:39.95 ID:daISRcm70
「油断も隙も無いな」
 律を睨みながら、澪が言った。
逆に、律は澪の隙を見取っていた。
澪は脚を閉じ、やや前傾気味の姿勢を取っている。
それは即ち、性器を極力隠そうとする姿勢だった。
また、身体も動かしていない。
やはり性器を露出する事に、少なからぬ羞恥を感じているのだろう。
胸の露出で羞恥を抱かない程に、澪は怒気を滾らせている。
だが、性器の露出にはまだ躊躇いがあるらしかった。
その羞恥を掻き立てるように、律は言う。
「なぁ、澪。それ、隠した方が良くないか?
さっきも言ったけど、私ら監視されてるぞ?」
 澪は監視されている事を、然して気にしていないかのように言う。
「ふんっ。水の中だから、どうせ見えない。
大体、下着を破ったのはお前だろう」
「いや、破ろうと思った訳じゃ無いけど。
足の動き、封じたかっただけで。
ほら、さっき脱いだシャツとかあるじゃん?あれ巻いとけば」
 その時、澪は包丁を手放す事になる。
それに乗じて包丁を奪う、という戦略まで律は立てていない。
逆に、そういった防御的な動作は、澪の神経を逆撫でしてしまう恐れがあった。
凶器を手放し他の作業を行う間に、澪の気も幾分か静まるのではないか、
という期待故の提案だった。
「元々、水を含んで重くなるっていう理由で脱いだはずなんだけどな。
本末転倒に陥らせてまで、お前は見たくないのか?」
 澪の瞳に、訝しげな色が浮かんだ。

110 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:17:48.79 ID:daISRcm70
「あ、いや。そうじゃなく、見せたくない、って言うか。
誰かに澪の……その、あれが見られてるって思うと、妬けるって言うか……」
「どうだか。本当は、見たく無いんじゃないのか?
お前は私の名前を聞くだけで、萎えるんだろう?」
 梓と律が交わる映像の中で、澪を激昂させた律の発言。
──澪の名前、出すんじゃねーよ、萎えるだろーが──
執念深く、澪は根に持っていた。
「いや……。あれはそういうんじゃ無くて……。
梓に空気読んで欲しかったって言うか……。
と、とにかくっ。澪だって、そこ晒しっぱなの、恥ずかしそうじゃん?
足閉じてるしさ、前屈みだし。
だから、隠した方がいいんじゃないかって提案だよ。
私以外のヤツに見せるなんて、澪も嫌だし恥ずかしいだろ?」
 律は慎重に言葉を選びながら、過去の己の発言から話題を遠ざけようと試みた。
澪の羞恥を指摘しつつ、凶器を手放す方向への誘導も忘れなかった。
「恥ずかしいからこんな姿勢取ってるワケじゃ無い……。
見せたくないのも、お前以外の人ってワケでも無い……。
お前に見せるのが怖いから……だよ」
 澪は瞳を伏せながら、静かな声で言葉を放ってきた。
「えっ?」
 予想外の返答に、律は思わず頓狂な声を上げていた。
「萎えるんだろ?
名前聞くだけで萎えるんなら、私のを見たら、更に萎えるよな」
 澪は『萎える』という律の発言から相当衝撃を受けていたのか、
執念深くその話題を繰り返した。
律は試みが徒労に終わった事を落胆しつつ、否定を返す。
「いや、そんな事、無いけど」

111 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:18:00.46 ID:LhDbqF0R0
秋山女史怖いです

112 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:19:18.90 ID:daISRcm70
「お前に萎えられるのが怖いから……見られる事が嫌だった……。
今だって、お前は目を逸らしてる」
「いや、逸らしてるワケじゃ無いって。
敢えて見る必要が無いってだけで。
ほら、凝視するものでも無いだろ?」
「好きな人のなら……恋人のなら……見たいと思うのが普通だろ?
そう思ってないって事は、やっぱり萎えるんだろ?
見たくないんだろ?」
「いや、お前が見せたく無いんだろ?」
「それは萎えられるのが怖いからだ。
お前が見たがるなら、それはつまり見ても萎えないって事。
それなら、見られる事に恐怖は無い。でも、そうはならなかったな」
 澪は寂しそうに呟くと、包丁から手を離した。
律の注意は、ずっと凶器である包丁へと注がれていた。
故に、澪が包丁から手を離せば、律の視線は落下する包丁へと向く。
それが意外かつ唐突な行動であれば、尚更だった。
即ち、律の警戒対象から澪が外れる。
それは律の隙だった。
 爆ぜたような音が響き、水飛沫が上がった。
包丁が水面を打った音では無い、澪が勢いよく跳ねた音だった。
それに気付いた時には、澪は律の膝に両脚を掛けていた。
包丁を手放した事自体、律の隙を誘う戦術だったのだろう。
「み、澪っ?」
 驚きの声を上げる律の頭を掴み、澪が不安定な姿勢を支える。
膝と頭から受ける澪の体重で、律は水面の位置まで首が下がり中腰の姿勢となった。

115 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:20:45.87 ID:daISRcm70
「恋人なら萎えたりしないで、見たいと思うのが普通だろ?
触れたいと、舐めたいと、悪戯したいと思うのが普通だろ?
嫌でも押し付けてやる。お前は私のだ、私の物なんだっ」
 半狂乱に叫んだ澪の陰部が、律の眼前へと迫る。
水に濡れそぼった黒々とした毛の奥に、ザクロが蠢いているような紅色が見えた。
それが、律の顔面へと押し付けられた。
「興奮しろよっ、感じろよっ、お前、此処が大好きだっただろ?
可愛いって、綺麗だって、美味しいって、いい匂いだって、愛してくれただろ?」
 澪が激しく腰を動かし、
律の顔に密着している”それ”を強く擦り付けてきた。
陰毛と摩擦を起こした肌に鈍い痛みが走り、堪らず律は声を上げる。
「いったっ。痛いって、澪」
「萎えるの次は痛い、か。
お前は何処まで私を痛めつければ気が済むんだよっ。馬鹿律っ」
 擦る強さが更に増した。
生暖かい粘液が絡み摩擦を緩和しているが、それでも痛みは消えない。
「痛いっ、落ち着けって、澪っ、なぁ、わぶっ、げほっ」
 唐突に律は咽び、抗議の声を途切れさせた。
澪の陰毛が口中で絡んだのだろう。
「嫌なのか?さっきから抗議ばかりしてる。
嬉しくないのか?好きな人の性器に触れて、嬉しくないのか?
それとも、もう私なんて好きじゃないのか?答えろよ……律ぅ」
 濃厚な粘液の味と、千切れて口腔に残る陰毛の感触を舌が伝えてくる。
擦れる陰毛の硬い感触と粘る液体の感触、
そして陰唇の蠢く柔らかさと滾る熱を肌が伝えてくる。
嗅覚を直撃する衝撃的な匂いを鼻が伝えてくる。
水と粘液によって艶を放つ陰毛の黒さと、蠕動する紅色を目が伝えてくる。
そして感情からは、澪が好きだという叫びが伝わってきた。
それを澪に伝えようと、律は口を開く。

117 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:21:40.53 ID:daISRcm70
「好きだよ。澪の事、大好きだよ。だから、離れて?
だって」
 耳から伝わるもの、それは室に注がれる水の音だけでは無い。
粘度の高い液体が肌と交わる音を加えても足りない。
鎖が軋む音も聞こえていたのだ。
「澪、足痛いでしょ?」
 無理な姿勢や動きのせいで、
拘束具である鉄の輪が足へと食い込んでいるに違いなかった。
それは鎖の鳴る音で容易に想像できる事だった。
また、律が痛みを覚えていたのは顔だけでは無い。
足にも鉄の輪が食い込み、鈍痛を感じていた。
それは二人を繋ぐ鎖が伸びきっている事を示しており、
澪も痛みを感じているはずだった。
 澪は何も言葉を返してこなかったが、擦り付ける動きを止めていた。
律は続けて言う。
「好きだから、澪に痛みを感じてほしくないんだ」
「だったら、浮気なんて始めからするなよ……」
 澪は静かに呟くと、律の膝から下りた。
ふと見ると自分の左足首も澪の右足首も、
拘束具が食い込んだ事を示す赤い跡が付いていた。
「律……」
 澪が身体を寄せてきた。
足の痛みで立っている事が辛くなったのだろうか。
そう思った律は、抱き寄せるように受け止めた。
粘つく顔を洗うよりも、まずはそうすべきだと思った。
「痛っ」
 唐突に、律の性器に痛みが走った。
「律……」
 澪が律の性器の奥へと、強引に指を差し込んできているのだ。
その事を理解するのに、一秒程の時間を要した。

122 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:23:59.78 ID:daISRcm70
「みっ、澪……痛い、痛いって」
 痛みを訴える律の声に構う事無く、澪は更に深く指を差し入れて掻き混ぜてくる。
「み、澪っ」
「やっぱり……」
 澪は一言呟くと、苦痛に喘いでいた律を唐突に解放した。
律は痛み故の涙を目尻に溜めながら、
律の陰門から抜いた指を眺めている澪に向かって問いかける。
「な、何が?やっぱりって、何が?」
 澪は脱力した声で言葉を返してきた。
「体液が分泌されてなかった……それにとても窮屈だった。
やっぱり萎えてたんだな。
私の性器じゃもう、律は興奮しないんだな」
「そ、そういう訳じゃないよ。
単純に、状況が状況だったから……濡れなかっただけで。
いつもいつも常に欲情してる訳でも無いし」
 律は澪の意図を悟り、慌てて釈明する。
だが、澪は更に声を曇らせて言う。
「悪かったな、いつも欲情してて。
律は違うんだ……何だか、私だけ好きみたいだね」
「そんな事無いよ……私だって、好きだよ」
「浮気してたくせに」
「それは……反省してるよ」
「今日、そんな色っぽいショーツ履いてきた事だって、
もしかしてムギの為だった?」
「違う……違うよ……。ムギとはもう、何でもないよ。
もう昔の事だよ、ちゃんと別れだって告げたし。
ムギだけじゃない。梓もいちごも」
「未だにそいつらとも、仲良く話してるみたいだけど」

123 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:25:27.82 ID:daISRcm70
「いや、何でも無いとは言っても、友達ではあるんだけどさ。
だから、ムギの事も心配ではあるよ?
ほら、私らが攫われた時、ムギがどうなったか、未だ明らかになってない」
 勿論、紬の事も心配ではあった。
だが紬の安否に言及した発言には、話を逸らす意図もあった。
 澪は律の言葉を受けて、深刻そうな表情を見せた。
澪も紬の事を心配しているのだろうか、そう思うと少しだけ安心できた。
澪の怒りの矛先が、浮気対象である紬達に向かう懸念もあったのだ。
 しかし、黙した後に出てきた澪の言葉は、律の安堵を覆すものだった。
「大丈夫だろ?どうせこれ、ムギが仕組んだゲームだろうし」
 律は咄嗟に反論する。
「そんなワケ無いだろ……」
 どうして、と理由は問えなかった。思い付き過ぎるから。
確かに紬は仕組みやすいポジションに居る。
そもそも別荘に招待したのは紬だった。
同じ部活に属する唯や梓が来ていないという不自然も考慮すれば、
紬の容疑はより濃厚になる。
律が澪の推理を否定した事にせよ、紬が友人だから、
という感情面からの理由に過ぎない。
「大体、ツムギソウっていう名前自体が、ムギに似てるだろ」
 律に問われるまでも無く、澪は理由を語っていた。
「そこは逆にムギが犯人じゃない証拠だよ。
確かに、ムギっぽい名前だ。
だからこそ、ムギが仕掛け人なら、
自分の本名を匂わす様な名前は名乗らないはずだし」
「そう思わせる為の策略かもな。
或いは逆に、自分の名前をアピールしたかったのかもな。
お前が本当に、ムギとの不埒な関係を断っていたら、の話だけど」

124 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:26:43.46 ID:daISRcm70
 律は澪の言いたい事を察した。
別れを告げられた復讐がこのゲームだとするならば、
敢えて自分の名前を匂わせる事にも意味が生まれる。
私を捨てた事に後悔しろ、そういった声を届ける事ができるのだ。
 しかし、すんなりとその考えを受け入れる訳にはいかなかった。
「お前の言いたい事は分かるよ。
でも、それだと……澪が巻き込まれるのは理不尽だ。
アイツに別れを切り出したのは私だ……澪は関係無い」
 言いつつも、律には分かっていた。澪が巻き込まれた理由が。
自分の本命が恨めしい存在である事くらい、容易に想像が付く。
「関係無い?それはつまり、私なんて恋人でも何でも無いって事か?」
 澪の声は不安に震えていた。
律は首を左右に激しく振る。
「そういう意味じゃない。澪は悪い事はしていない、って意味だ。
澪は私と恋人だっただけで……私だけが悪いのに……。
いや、勿論、ムギと決まった訳じゃ無いけど」
 律は力なく言った。
しかし、別荘の中に居た律や澪を攫ったとなると、
確かに部外者の犯行とは考え難い。
紬が主犯では無くとも、仕組んだ側に加担していると考えた方が自然だった。
 それに、紬が無関係だったとしても、
自分の浮気相手の誰かが主犯である気がしていた。
律と澪を攫った事、ゲームのテーマが絆であるという事、
そして流れる映像が全て浮気の現場を押さえたものであるという事。
これらを考え合わせれば、
捨てられた復讐こそが動機のように思えてくる。
少なくとも、無関係な人間が仕組んだスナッフムービーの撮影、よりは自然な解釈だった。

128 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:28:58.63 ID:daISRcm70
「実は私……お前が誰かと浮気しているんじゃないかって、疑ってたんだ。
律の事、ずっと見てきたから。だから、不自然な挙動にだって勘付ける。
でも……信じたくなかった。
だからお前の不自然な挙動、見ないフリしてた……」
「そうか……」
 律は今更驚かなかった。
複数人に浮気をしていたのだ、
澪が不自然を感じたとしてもおかしくは無いだろう。
浮気をしていた頃にせよ、証拠さえ握られなければ疑われても切り抜けられる、
そう高を括っていた。
「私は……本当に辛かった。律に猜疑を抱いている日々は、地獄だった。
ヤケ食いする日と食欲無くなる日が交互に襲ってきて……
胃だってキリキリと痛んだし、生理だって乱れて、夜も眠れず……
精神科にだって通ったくらいなんだ。
そこまで追い詰められても、お前の事は信じたかった。だけど……」
 澪は額に手を添えて、言葉を続けた。
「裏切られたよ……」
「ごめん、澪」
 それ以上の言葉は出てこなかった。
澪の苦悩を知った今、掛けるべき言葉が見つからない。
先程澪に殺されてしまえば良かったとさえ思えてくる。
だが、ゲームの始めに澪と交わした約束を思い出し、何とか自分を奮い立たせる。
──二人で助かる。
散々裏切ってきたからこそ、その約束を大切にしたかった。
 既に水は胸の位置まで迫ってきている。
律は焦燥に駆られるまま、叫んだ。

130 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:30:29.46 ID:daISRcm70
「おい、ムギソウ、ここから私達を出してくれっ。
注水を止めてくれっ。頼むっ。
もし私の浮気相手だったのなら……謝るから許してくれ。
軽い気持ちで手を出した挙句、フった事は本当に悔いてる。
本当に、悪かった。手を出して悪かった、捨てて悪かった……。
本当にごめんなさい、お願いだ、許してくれ……許してぇっ」
 嘆願を込めた律の絶叫が響き渡るが、反応は何も返ってこなかった。
もう、律に残された道は一つしかない。
水が満ち次第、澪と交互に息継ぎを行う事だけだ。
しかし、今の澪が協力してくれるだろうか。律は不安だった。
もし非協力的であっても、何とか翻意させて協力させなければならない。
そうでなければ、約束は果たせないのだ。
 しかし、澪の説得に律は自信が持てなかった。
今の自分はもう澪からの信頼を失っていると、律には分かっている。
澪が未だ律と協力して助かる気でいる事を、祈るしかなかった。
 そうして律はこのゲームの本質に、今更ながら気付く。
二人共に助かる方法を模索する謎解きゲームなどでは無い。
交互に息継ぎを行うだけという運動ゲームでも無い。
律が簡単過ぎると懸念した通り、本質は別にあった。
裏切りが露わになっても、なお信頼を保てるかという、心理ゲームだったのだ。
(ゲームのテーマ、絆か。くそっ)
 例え自分が相手を信頼できても、相手からの信頼が得られなければ意味が無い。
露わになっていく裏切りの中でも、相手を信じさせる必要があったのだ。
つくづく嫌らしいゲームだと、律は胸中で毒づく。

132 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:31:41.56 ID:daISRcm70
「なぁ、律」
 その律の耳に、澪の声が届く。
「ん?」
 顔を向けた律に、澪は静かに問いを放ってきた。
「他にも浮気相手は居るのか?」
 律は凍りついた。
事実は、あと一人だけ居る。
しかし、事実を言う事は躊躇われた。
澪からの信頼を、これ以上失う訳にはいかないのだ。
水は肩にまで迫ってきており、タイムリミットが近い事を示している。
ここで更に信頼に傷を付ければ、協力しあう事が絶望的に思えてくる。
 だが、どうせその一人との映像を流されれば、露見する事なのだ。
嘘が露見した場合、正直に告白した場合よりも信頼の毀損は大きい。
勿論、ムギソウがその映像を持っているとは限らない。
だが、持っていない方へと賭ける事は、危険過ぎる行為だった。
何より、澪にこれ以上嘘を重ねたくなかった。
もう裏切りたくなかった。

134 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:32:48.76 ID:daISRcm70
 律は葛藤の末、決断を下した。
「ああ、あと一人だけど、居るよ」
 澪は脱力しきったように、壁に背を凭れた。
「あと一人?これでもう、四人目だよ。
私はまた、裏切られるのか」
 澪は頭を抱え込み、言葉を続けた。
「律だけじゃない……クラスメイトのいちごにも裏切られた。
妹のように可愛がっていた梓にさえ裏切られた。
親友だと思っていたムギにも裏切られた。
その上、そのムギが仕掛け人かもしれないなんて……。
これ以上は無理だ……これ以上、恋人や友人や知人から裏切られたくないよ。
唯に会いたい……HTTの中じゃ、アイツだけが私を裏切っていない。
アイツだけが……」
 澪の悲痛な言葉が、律の胸を劈く。
律は何も言えなかった。
言わなければならない事は分かっている。
だが、悲しみに嬲られた澪に、言う事ができない。
 その時、唐突にディスプレイに光が灯った。
また浮気現場を押さえた映像が流されるのだろう。
律には相手の予想も付いている。恐らく、最後の一人だろう。
「今度は何だよ……」
 嫌気が差したような声を上げて、澪がディスプレイへと視線を移した。
律は顔を歪ませた。
相手の予想が付いているからこそ、ディスプレイも澪も正視する事ができなかった。

138 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:34:46.50 ID:daISRcm70

*

 ムギソウは律の嘆願を聞いていた。
『軽い気持ちで手を出した挙句、フった事は本当に悔いてる。
本当に、悪かった。手を出して悪かった、捨てて悪かった……。
本当にごめんなさい、お願いだ、許してくれ……許してぇっ』
 聞き終わった時、それでも律を許す気にはなれなかった。
心からの謝罪ではなく、助かる為の詐言に過ぎないかもしれないのだ。
「何より、私一人の判断でゲームを勝手に終わらせる訳にはいかない」
 協力者の事を思った。
律の謝罪を聞きムギソウの心が動いたとしても、協力者は報われない。
少なくともゲームが終わるまでは、
自分の感情でシナリオを変えない事が筋だろう。
ここまで協力してもらいながら、
勝手にゲームを終わらせてしまうのは裏切りに等しい。
それは律と同様の行為だと、ムギソウは思っている。
「それにしても、凄まじい執念。
私よりも恨みが篭っていそうな程。一体、誰かな?」
 ムギソウは考えた。自分を含めて、ムギソウが知っている律の浮気相手は四人だった。
それは協力者から得た映像で知った事である。
自分を除いた三人の中に、協力者が居るのだろうか。
実際、浮気映像ばかり選られている以上、それが妥当な推理のように感じられた。
律も浮気相手の中にムギソウの正体が居るという前提で、先程の嘆願を放ってきた。
それも浮気映像ばかりが流れている事から推量したのだろう。
そしてそれは、事実正しかった。
 勿論、律の浮気相手が四人とは限らない。
ムギソウの持っている映像の中には居ない者と、浮気している可能性が残っている。
その者が協力者かもしれなかった。
もしそうなら、当たりを付ける事さえ不可能に近い。

139 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:35:55.66 ID:daISRcm70
 そう考えていた時、流れてきた律の声がムギソウの注意を引いた。
『ああ、あと一人だけど、居るよ』
 その発言が真実ならば、浮気相手は四人という事になる。
即ち、映像に登場している人数と一致する。
そして律がこの局面で嘘を付くとは考え難い。
流される映像によって嘘が露見するリスクを思えば、危険過ぎる賭けなのだから。
それにどうせ嘘を吐くなら、一人も居ないと答えるだろう。
 ムギソウは確信を深めた。
協力者は自分を除く三人の中に居る、と。
映像を吟味していけば、協力者が誰であるか分かるのだろうか。
少なくとも、ヒントは得られる気がしていた。
 しかし、その吟味を今行おうとは思わなかった。
それよりも、続いて流れてきた澪の声に、ムギソウは意識を向けた。
今集中すべき事は、ゲームの進行である。
『これ以上は無理だ……これ以上、恋人や友人や知人から裏切られたくないよ。
唯に会いたい……HTTの中じゃ、アイツだけが私を裏切っていない。
アイツだけが……』
 ムギソウは歪んだ笑みを浮かべた。
律が最も愛している女、それに絶望を届けられる事が嬉しかった。
「そろそろ、四人目。最後の一人の映像を流そうっと」
 無邪気に言うと、映像を再生させた。

140 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:37:14.13 ID:daISRcm70

*

 エレベーター内に、唯の声が響き渡った。
『りっちゃん、大好きー』
 スピーカーを通しても、朗らかさが伝わってくる明るい声だった。
ディスプレイには、唯の姿が映っているに違いなかった。
だが、澪はこういう形で唯と会う事を望んでいなかっただろう。
律はそう、確信していた。
『私も大好きだよ、唯』
『むー、私の好きと、りっちゃんの好きは絶対違うもん』
『何言ってるんだよ、今更。何度もヤってきただろ?今だって最中だしな。
友情じゃないって。ちゃーんと恋愛感情抱いているよ』
『澪ちゃんに向けてる恋愛感情と、私に向けてる恋愛感情が違うって言ってるの。
澪ちゃんに向けてるのは、長い恋愛感情。
でも私には、刹那的な恋愛感情だもん』
『そんな事無いって。それに、長短が恋愛の勝敗を決めるワケじゃない。
例え短くても、その分激しく燃え上がればいいんじゃん?』
 粘つく卑猥な音が響く。
ディスプレイには、溶け合っている二人が映っているのだろう。
目を逸らしていても、音がそれを教えている。
『そうかもね。私、澪ちゃんでさえやってもらって無い事を、
りっちゃんからやってもらってるもんね。
そうでしょ?澪ちゃんとは、ここまではヤってないんでしょ?』
 唯との性交は、常に激しいものだった。
時に倒錯した行為にさえ及んでいた。
それは澪との性交では、未だ及んだ事の無い領域だった。

144 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:38:36.91 ID:daISRcm70
『そうだよ。こういうのは、唯が相手じゃないとな。
澪じゃどうせ務まんねー。だから私達で激しく燃え上がろうぜ』
『うんっ。こういう事ヤってもらってると、
私って特別なんだなって思えるよ。
澪ちゃんに勝ててる、そう思えるんだ』
 今流れている映像も、数多重ねた倒錯した性交の一つなのだろう。
律はディスプレイから目を逸らしているが、唯の発言からそれを推量する事ができた。
『ていうかさ、お前との相性って、澪以上だと思うんだよね。
澪とじゃこういう事できないし。ほら、次はもっと凄いのイクぞ』
「っ」
 スピーカーから流れる音声に混じって、すぐ側から澪が漏らす嗚咽の声が聞こえた。
『うんっ、来て。ひぎっ、凄い何これ……狂っちゃいそうだよぉ。
凄い凄い、りっちゃん、いいよ、いいよぉ……。
あ、あのね。りっちゃんの言う通りだよね。
こういう危険な事ができるって、
それだけ私とりっちゃんの間の相性が良いって事だし。
危険なプレイに身を委ねられるって、それだけ信頼関係があるって事だし』
『だろ?澪と私じゃ、できないもんな。
これって唯と特別な関係である証拠だよなー。じゃ、次は更に凄いのを』
「っ」
 澪の口から短い悲鳴が漏れていた。
律は過去の自分を呪ったが、今更どうする事もできない。
『本気?そんな事したら、私どうなっちゃうのかな?』
『不安?』
『んーん、りっちゃんなら、いいよ?壊してくれて、いいよ。
その代わり、私の事捨てないでね』
『分かってるよ。お前は特別だから。
じゃ、イクぞー』

146 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:39:40.77 ID:daISRcm70
 特別でも何でも無いくせに、律は安易な約束を交わし、挙句唯を捨てた。
唯だけでは無い、いちごも梓も紬も。
その過ちが今になって、大切な澪すら巻き込む原因となっているかもしれないのだ。
律は過去を悔いて、己を胸中で痛罵した。
薄情者、と。
『りっちゃん、早くぅ。わわっ、キた、キた。何これ?え?え?
わ、凄っ、凄い事になってる。こんな……初めて……。
ああ、止まらないよ……止まってくれない……身体が言う事聞いてくれない……。
ねぇ、どうなってるの?私の身体、どうなってるの?
どうなっちゃってるの?』
 限界を試すような倒錯した性交の連続、そのせいだろうか。
唯に別れ話を切り出した時が、一番揉めた。
『自分でも驚いてるよ。凄いな、唯の身体は。
私はこう考えるよ。今のお前、凄く綺麗だよ。とても魅力的だよ』
『ありがとうっ、だから私、頑張れる。
あのね、私ね、いっつも澪ちゃんに優越感抱いてるんだ。
澪ちゃんは、ここまでしてもらってないでしょって。
澪ちゃんじゃ、ここまでヤってもらえないでしょって。
澪ちゃんより私の方が、りっちゃんに相応しいよって』
『そっか』

147 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:39:47.51 ID:LhDbqF0R0
うわ…

148 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:40:46.39 ID:daISRcm70
『うんっ。澪ちゃんの事、見下してるよ。
許されるよね?だって、澪ちゃんは私のりっちゃんと、お付き合いしてるんだもん。
だから、これからも心の中で嘲笑し続けるよ。
気付いていない澪ちゃんを、嘲り続けるよ。
友達のフリしてるけど、実は蔑んでるよ、見下してるよ、嘲ってるよって』
 そこで映像は終わったのだろう。
水面に映る鮮やかな光彩は消え、代わりに白熱灯の光が映された。
スピーカーの音声も途絶えている。
恐る恐る視線を上げると、ディスプレイは暗くなっていた。
 続いて律は、澪に視線を向けた。
澪は憔悴しきった表情で、律を見つめ返してきた。

150 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:41:26.13 ID:LhDbqF0R0
唯が一番やばいな

151 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:42:03.87 ID:daISRcm70

*

 絶望に沈む澪の表情を眺めて、ムギソウは悦に入った。
律から愛され続けた女である澪に対しては、
彼女に罪が無いと分かっていても憎悪を止められない。
だからこそ、澪を嬲り尽くす事に躊躇いは無かったし、
絶望の底へと叩きつける事にも逡巡しなかった。
「ゲームはこのまま、二人の死で終わりか」
 悲嘆に暮れる澪が、助かる為に律と協力するとは思えなかった。
自分だけ死ぬか、或いは律を巻き添えにするか。
残された選択肢は二つしか無いだろうと、ムギソウには思えた。
そして恐らく、律と心中する道を選ぶだろうと予想した。 
 その時は、手元の律と澪を半々に模した人形を引き裂いて、
高笑いを浮かべてやろうと決心していた。
律に対する、愛憎入り乱れる複雑な思いを抱えたまま。
「それでももし……ここから二人が信頼を取り戻して、
ゲームに勝つ事ができたのなら」
 その時は、ムギソウの側が屈服せざるを得ないのだろう。
ムギソウだけでは無い、協力者の敗北でもある。
もしそうなった時には、即ちそこまで強固な絆を見せ付けられた時には、
ムギソウは素直に敗北を認める事ができる気がした。
自分が選ばれなかった事は、仕方の無い事だったと。
「考えても意味の無い事だけど」
 ムギソウはそう呟いて、自分の無意味な思考を笑った。
ここからの逆転は、まず有り得ない。
もしここまで信頼を破壊され絶望に浸されてなお、
信頼を取り戻す事ができるのなら──
二人の仲を最良だと認めざるを得ないだろう。
それが逆説的に、二人の勝利の難しさを物語ってもいた。

154 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:43:39.87 ID:daISRcm70

*

 身体を浮かせていないと呼吸がままならない水準まで、
既に水が迫ってきていた。
時間はもう、ほとんど残されていない。
律はそれを自覚して、真っ青な表情を浮かべる澪に向けて語りかける。
「なぁ、澪。そろそろ、交代する時のテンポとか決めよう。
私は10秒毎くらいに、交互に息継ぎすればいいと思うけど。
忙しないかな?でも20秒だと苦しそうだし。15秒辺りが妥当かな?」
 澪はゆっくりと言葉を返してきた。
「もういい……もういいよ。
この期に及んで助かろうなんて、思えない」
 ある程度想像できた答えだった。
最期の砦だと思っていた唯にさえ、澪は裏切られた。
否、唯を裏切らせたのは律自身だった。
 何れにせよ、蹂躙され尽くされた澪の精神が、
律との協力を選択するとは思えない。
それでも律は、翻意させようと言葉を放つ。
澪を死なせたくなかった。
「約束したじゃん……。一緒に助かろうって。
後で……裏切った事に付いては償うから。
だから……お願いだよ澪」
「約束だって?散々裏切っておきながら、今更約束を守ろうだなんて。
もう、信じられないよ……。
二人助かっても、またお前は浮気する。
しなかったとしても、私はずっと疑ったまま生きていく事になる。
耐えられない、そんなの、耐えられない」

157 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:45:24.62 ID:daISRcm70
「裏切ってきたからこそ、この約束だけは守りたいんだ。
頼む、これ以上私に……約束を破らせないでくれ。
それに、もう浮気はしてないし、これからもしない」
 今更言葉で説得が成功するとは思っていない。
それでも律は諦めずに言葉を並べた。
悲痛に拉がれている澪を助けてやりたかった。
「信じられないよ……。それと、お前はもう約束を破る事は無い。
二人助かるっていう約束は、私が一方的に破るだけだから。
いや、変更するだけだから」
 澪の瞳に、暗い影が落ちた。
「変更?」
「うん。一緒に死の?」
 律は取り乱す事無く、その声を聞いた。予想できた事だった。
罪悪感に苛まれている今の律にとって、寧ろ甘言にさえ聞こえる。
だが、律は誘惑を断ち切って、その提案を一蹴する。
「駄目だ。生きて償いたい。澪に生きていて欲しい、
澪に幸せになって欲しい。
だから、死ねない。私は死ねない。澪も死なせない」
「ごめんね、律。私はもう、限界なんだ。
それに今のお前はただ助かりたいから、
一時的に都合の良い事言っているようにしか聞こえない。
それどころか……唯達とやり直したり、次の浮気相手見つけたり……。
そういう事したいから、助かりたいようにさえ見えるよ。
ほらね、限界だろ?」
 水はもう、口元にまで迫っている。
律は浮いていても、呼吸する事さえ厳しくなってきていた。
言葉を放つ事さえ、そろそろ澪の協力が必要な水準だった。

159 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:47:16.06 ID:daISRcm70
「澪……」
「ごめんな、律。誰にもお前の事は渡さない。
だから、私は……お前を地獄まで連れて行くよ」
 澪は水中へと潜った。
そして、包丁を手に取る姿が、水面越しに律の瞳に映る。
 お前の勝ちだムギソウ、そう律は叫んで全てを投げ出したかった。
だが、必死に堪える。最後まで諦める訳にはいかないのだ。
それこそが、自分に課せられた罰だろうと、弱気な心に言い聞かせた。
 律も澪の後を追うようにして水中へと潜った。
そうしなければ、あっという間に澪に刺殺されてしまうだろう。
 水中で包丁を持った澪と組み合う。
動きが緩慢なせいか、刃を押さえる事には然程苦労しなかった。
動きが遅い点は律とて同様だが、動体を見切る事が容易になっている。
だが、息継ぎまで行っている余裕は無い。
そんな隙を見せれば、致命傷は免れないだろう。
そして澪の説得を試みようにも、水中では言葉すら放てない。
結局、溺死するか刺殺されるか、という運命にあった。
 次第に律は息苦しくなってきていた。
このまま、傷付けた澪に償えないまま終わるのだろうか。
否、傷付けたのは澪だけでは無い。
いちごや梓や紬、そして唯といった面々が脳裏に浮かぶ。
彼女達も傷つけてきた。
自分だけが傷を負わずに済む訳が無かったのだ。

164 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:48:28.27 ID:daISRcm70
(そうだよな……ムシが良すぎるよな。
私が一番悪いのに……。だからこれは、私に向けた罰か。
なら、甘受してもいい。でも……)
 巻き込まれている澪の事を思った。
罰ならば自分だけが傷つけば良いのにと、律は思った。
 その時、律は唐突に閃いた。
澪の信頼を取り戻せるかもしれない、と。
ただ、実行は躊躇われた。
強い心理的抵抗があった。
 しかし、刻一刻と限界は近付いてきている。
自分も、澪も。
律は覚悟を決めた。
(これだけやったのに、傷も負わずに済ませようなんて、
始めから虫が良すぎたんだ)
 律はもう一つの包丁を手に取った。
途端、澪の顔に警戒が走る。だが、警戒は無用だった。
律は柔らかく微笑むと、自分の右胸へと刃先を立てる。
そして──肌を切り裂いた。
薄く血が滲み、澪の顔に驚愕が浮かぶ。
続いて、左胸にも同じように傷を付ける。
 次は性器だった。胸よりも、更に強い抵抗が訪れる。
だが、罪悪感が嘘で無いならばできるはずだと、自分に言い聞かせて。
斜めに二度、クロスを為すように傷を付けた。
 澪が驚いている隙を見計らい、水上へと浮上する。
呼吸の為では無い、澪に語りかける為だった。
澪が静聴してくれる事を祈るしかない。
包丁で攻撃されたり鎖を引っ張って妨害されたりすれば、水泡に帰す。
それは賭けだった。

167 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:49:49.84 ID:daISRcm70
 水上に頭を出した律は、大声で叫んだ。
「澪っ、これで浮気はもうできないっ。
身体に傷が付いているんだ、こんなの澪以外には見せられない。
それなら、信じられるだろ?」
 浮気をしないと言って信じてもらえないなら、
浮気ができないようにすれば良い。
律が閃いた案は自傷を伴うものだったが、
澪だけ愛するという覚悟を示す事もできる。
 ただ、これだけでは不足だった。
身体を見せない浮気ならば、未だ律はできる事になる。
だから律は続けて言った。
「勿論、これだけじゃないっ。
性交を伴わない浮気だって、できなくなるようにする。
澪は……私の事、見た目で判断しないって信じてるから……。
私がどうなっても、きっと私の事愛してくれるって信じてるから。
だから……」
 律は刃を見詰める。
今までの自傷とは比較にならない程、躊躇が湧き上がってくる。
しかし──肉体的かつ精神的な──痛みを乗り越えられなければ、
澪からの信頼を取り戻せないだろう。
律はそう思い、刃を顔に当てた。
また、躊躇いが湧いてきた。
しかし逡巡している時間は無い。澪は未だ水中なのだ。
澪を愛するという強靭な意志と、罪悪感という業への贖いを原動力に変えて。
律は、額から鼻筋を通り頬へかけて、斜めに切り裂いた。
間違いなく痕が残り続けるだろう程に、深く。

169 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:51:47.76 ID:daISRcm70
 鮮血が、水面へと滴り落ちた。
「あはは、やっちゃった。
でも澪は……私の顔に傷が付いても、好きでいてくれるよね。
これでもう……セックスしない浮気もできないや。信じてくれる、よね?
もう……一つ」
 顔へ刃を先程とは対象に添えた時、足を強く引かれた。
手元が狂った律は、今度は浅い傷しか付けられなかった。
見下ろすと、律の足を引っ張る澪の姿が映った。
律はその力に任せた。そして後は澪の判断に任せた。
 水中へと引き摺られた律は、澪の胸に抱かれた。
説得は失敗したのだろうか。
このまま、澪の胸に抱かれたまま溺死する運命なのだろうか。
律は不安になったが、抱かれていた時間は一瞬だった。
すぐに澪は水面へと顔を出して、叫んでいた。
「ごめんっ、律。私が信じてやれないばかりに……。
大切な顔に傷が……。律の顔に……。
私のせいで……必ず責任は取るから。傷物にした責任、取るから。
律の事、愛し続ける。信じ続けるからっ」

170 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:52:38.11 ID:daISRcm70
 水の中で、律は笑みを浮かべた。
澪からの信頼を得る事ができた、それが嬉しかった。
消えない傷痕の見返りは大きかった。
再び水中へと潜ってきた澪に口付けてから、律は再度浮上する。
「ありがとうっ。本当に有難う。
でも、責任とかは考えなくていいよ。悪いのはほら、私だから。
この傷は澪のせいじゃない。私のせいなんだ。当然の償いなんだ。
当然の、罰なんだ」
 叫んでから、再度水中へと戻った。
今度は澪の方から口付けてくれた。
 律と入れ代わりに浮上した澪の叫びが、水中にまで響いてくる。
「責任を取るっていうのは……ずっと側に居るって意味だよ。
同性だから法的な結婚はできないけど。それでも、側に居るから。
律の事、大好きだよ。改めて約束するよ、一緒に助かろう」
 潜ってきた澪と三度目の口付けを交わして、律は浮上する。
「そういう意味なら、大歓迎。
澪が私と再び歩む道を選んでくれるのなら、この傷だって誇れるよ。
勲章だ、って。今までごめん。そして、これからもよろしく」
 既に律の関心は、勝利したも同然のゲームからは逸れていた。
澪からの信頼を再び得られた喜びに浸っていた。
 後はもう、消化試合だった。
呼吸と口付けを、交互に行うだけなのだから。

173 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:54:28.26 ID:daISRcm70

*

「信じられない……」
 ムギソウは驚愕の面持ちで呟く。
逆転があるとは思っていなかった。
増してや、律が自傷するとは予想だにしていなかった。
 女であるにも関わらず、律は自分の顔まで傷付けた。
そうまでして、澪の信頼を取り戻したかったのだろう。
それは即ち、ムギソウの敗北だった。
「これはもう……仕方ないかな」
 ムギソウは手元の、律と澪を半々に模した人形を放り投げた。
もう無用だろう。
「この二人の絆は本物だった。
結局、他の誰も引き裂く事なんてできやしなかった。
こんなの、負けてもしょうがないって思えるよ。
神聖と言いたいくらい」
 口付けと呼吸が繰り返される画面を眺めて、一人呟く。
澪に対する嫉妬の念は、羨望へと姿を変えている。
「羨ましいな。そこまで愛してもらって」
 暫く眺めた後、時計を見やった。
制限時間まで、後少しのところまで近づいてきていた。
「そろそろ救出の準備、行おうかな」
 ムギソウは立ち上がった。
と、同時に、今更になって一つの懸念が芽生えた。
それは、ここに至るまで干渉も連絡もしてきていない協力者の存在である。
このまま不干渉を貫いたまま、姿を消すのだろうか。
そう平和に終わる気が、ムギソウにはしなかった。

174 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:55:41.80 ID:daISRcm70
 準備の周到さや映像の選定から、協力者には相当強い執念が感じられる。
それにゲームの指示を出しておきながら、
ゲームの進行過程や結果に興味を示さない事が有り得るだろうか。
 もし、結果を確かめる為にここに向かってきているとしたら。
ゲームをクリアした二人を見て、果たして讃えるだろうか。
ムギソウは逆に、律と澪が更なる危険に晒される気がした。
強い執念の下、ゲームをクリアされた事に逆上しないとも限らない。
「二人が……危ない」
 特に律の事を想った。
顔を傷付けてまでクリアしたのに、その後に殺されてはあまりにも不憫だった。
愛憎入り乱れていた律への感情から、今はもう憎しみが薄れている。
顔すら自傷して澪を愛し続けるのなら、それは認めざるを得ない事だった。
加えて、顔に対する自傷それ自体が、自分を捨てた贖いにも感じられていた。
「行こう」
 ムギソウは手に、鍵と縄梯子を持った。
勿論、協力者が律達を襲撃するとは限らない。
二人を讃えに姿を見せるかもしれないし、
このまま正体を明かさないままかもしれない。
それはムギソウ自身分かっていた。否、そうであればいいと望んでいた。

175 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:56:57.21 ID:daISRcm70
 だが、この逸脱した状況の中、根拠の無い楽観で安堵は得られない。
「それにどうせ、制限時間まで極僅かだし。警戒だけならタダだし」
 ムギソウは部屋のドアを開いた。
この部屋は、外からは一見壁に見えるようドアが偽装されていた。
とは言っても、元からそういう造りだったのでは無い。
この部屋を監視用として活用するにあたり、
ドア外側のドアノブを外して、大きなポスターを張り巡らせたに過ぎない。
警戒が必要だとは思っていなかった。だから偽装は最小限に留めた。
この程度の用心でさえ、不要だと思っていたくらいだった。
 しかし今となっては、もっと警戒すべきだったと思っている。
それ程までに、協力者に対する猜疑の念が芽生えていた。
「待っててね、りっちゃん、澪ちゃん」
 ムギソウは──琴吹紬は、ポスターを破り部屋を出た。

176 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:57:52.64 ID:a9ps8u2OO
ムギソウ…

177 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:57:57.83 ID:daISRcm70

*

 紬は走った。
本来なら、制限時間到来時にクリアのアナウンスを流し、
その後に救助する心算だった。
クリアと救助の間にタイムラグが生じてしまうが、然して気にしていなかった。
だが、律達を案じる気持ちが強い今となっては、
タイムラグゼロで救出する方向へと考えを変えている。
 紬は程なくして、二階のエレベーター前へと到着した。
少し開いたドアに幾つものホースが通り、下へと水を送り込む用途を為している。
律達が居るエレベーターの籠は丁度この真下にあった。
ドアを完全に開いてシャフトの下を覗き込めば、
交互に呼吸を繰り返す二人の姿を確認できるだろう。
 紬はその前に、時間を確かめた。
制限時間まで、残り3分を切っている。
救助の準備にかかる時間を考えれば、もうクリアしたと扱っていい頃合だった。
紬はそう判断して、床に据えつけられているポールに縄梯子の一方を結わえ始めた。
ここから縄梯子を垂らして、二人に登らせる心算でいる。
律達の居る一階の扉を徐々に開いて排水する方法もあったが、
こちらの方が安全かつ早いだろうと紬は考えていた。
そもそも、一階の扉は開けられないようにと、外側を錠で頑丈に固定している。
鍵を用いて開錠する必要があり、余計な時間を取られてしまう。
 救助の準備を整え終わると、いよいよ紬はエレベーターのドアに両手を掛けた。
ドアを開く事に、躊躇はあった。
ムギソウは自分であると、明かす事が怖かった。

178 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/14(日) 23:59:10.92 ID:daISRcm70
 だが、ゲーム終了時間になっても進行サイドがアクションを起こさないのでは、
律達を無用の不安に陥れる事になる。
それに、身長よりも水位が高い以上、溺れてしまう危険性もあった。
体力が奪われていたり、出血をしていたりするなら尚更の事だ。
紬は勇を鼓してドアを開いた。
 下を覗き込むと、二人は無事だった。
水の上に頭を出している律も、水底に居る澪も、
驚愕に満ちた顔を紬に向けている。
「話は後。これで足の拘束解いて」
 紬は鍵を投げた。
それは水面に波紋を呼び起こして沈み、水底へと届く。
水中に居た澪が鍵を拾って、自身の足と律の足を拘束から解き放った。
「ム、ムギっ?お前……何で?」
 律がまず口を開き、水上へと顔を出した澪が続いた。
「ムギ?まさかお前……」
 紬は言葉を返しながら、縄梯子の結わえていない方を落とした。
水面を打つ音が響き、再び波紋が広がった。
「まずはゲームクリアおめでとう。
そしてごめんね。私がムギソウなの。
取り敢えず、上がって?」
 紬の差し出した縄梯子に、律も澪も警戒に満ちた視線を送っている。
その反応も当然だと紬とて思うが、あまり逡巡している時間は無かった。
「早く上がって?
もうゲームは終わったの。だから、これ以上危害は加えないわ」
 そう言った後で、紬は付け足した。
「少なくとも、私はね」
 律は眉根を寄せた後、怪訝に満ちた声音で返してきた。
「どういう意味だ?他に仲間が居るのか?
それとも、裏でムギを脅してるヤツでも居るのか?」

181 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:00:46.18 ID:zxd9nZC10
「それもすぐに説明するから。早く上がって」
 協力者が姿を見せる前に、二人を水から上がらせてしまいたかった。
勿論、姿を見せるとは限らない。
姿を見せても、危害を加えてくるとは限らない。
だが紬の危惧通りに襲撃してきた場合、二人を救出する事は困難になる。
 それでも動かない二人を見て、焦れた紬は敢えて強い語調で言う。
「何時までも其処でそうしている訳にもいかないでしょ?」
 尤もだと思ったのか、澪が腹を括ったように言う。
「確かに、他に選択肢は無いな」
 律も続いた。
「一理ある……な。ところで、コレ」
 律は縄梯子を引っ張りながら、問いかけてきた。
「大丈夫なんだろうな?途中で落ちたりしないよな?
二人の体重が掛かったとしても」
「それは安心していいわ。しっかりと端を結んであるから。
それに登る距離も短いから、
続け様に登っても二人分の体重が掛かる時間は少ないわ」
 紬が返すと、律は澪に向けて言う。
「澪、私が先に上る。すぐ後を付いてきてくれ。
何かあっても、澪は私が守るから」
「いや、駄目だ。律は怪我してるし……それも私のせいで。
だから」
「私のせいだよ。私は澪を裏切り続けた。何回も何回も。
せめて今度は、守らせてくれ」
「律……」
 澪の頬が赤く染まった。
その頬に一つ口付けしてから、律の手が縄梯子に掛かる。
そうして律が少しずつ、水から身体を引き上げている時だった。
紬の後方に、足音が聞こえた。

183 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:02:30.74 ID:zxd9nZC10
 紬は反射的に振り返る。
そこには長い黒髪を靡かせる小柄な女が居た。
「どうした?ムギ、何かあったのか?」
 不審に満ちた律の声が聞こえてくる。
それには返答せず、紬は足音の主の名を呼んだ。
「梓……ちゃん」
 梓が裏で絵を描いていた協力者の正体なのだろうか。
仮にそうだとして、危害を加えに来たのだろうか。
紬はすぐに判断を下した。
協力者の正体は梓であり危害を加えに来た、それを前提に動こうと。
 判断を下した理由は二つ。
梓の攻撃的な視線と、その手に握られた金槌の存在だった。
「ゲームはもう、終わりです」
 言うや否や、梓は呼気を荒げて突進してきた。
それは紬の判断を肯定する行動だった。
舌打ちを一つしてから、紬も突進した。
二人の距離が一瞬で縮まる。
梓が金槌を振り上げたが、紬は怯まず加速した。
 僅かな時間の後、二人の身体は衝突した。
振り下ろされた金槌が紬に当たったが、
衝突した際に梓の体勢が崩れたお陰で痛みは少なかった。
 反面、梓を見舞った衝撃は大きかったらしく、
突き飛ばされて地に臀部を付けている。
金槌を使う際に梓の速度は減殺されていた上、体格も紬の方が勝っていた。
その二つが二人の優劣となって、結果に表れたのだ。
紬の突進は、そこまで計算しての事だった。
 だが、安心するのはまだ早かった。
梓は素早く体勢を立て直し、金槌を振り回してきた。
紬は躱す事を諦め、頭部のみ守りながら接近戦に徹する。
体格の差は紬に有利であり、素手と鈍器という差は梓に有利だった。

184 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:03:40.86 ID:zxd9nZC10
「梓っ、ムギっ。何やってんだっ?」
 激しい殴打の応酬は、律の叫びによって止んだ。
紬が梓と格闘している内に、律は登りきっていたらしい。
「りっちゃん……」
「律先輩……って、その顔はっ?」
 梓は驚愕に満ちた眼差しで、律の顔を見やった。
「いや……ちょっと」
 律は言い難そうに言葉を濁した。
「許せない……きっとムギ先輩のせいだ。
でも安心して下さい、助けに来ましたから」
「何を言ってるのっ?」
 紬は慌てて割って入った。
そしてすぐに、梓の意図を察する。律を騙そうとしているのだ、と。
「騙されないでっ。梓ちゃんこそ黒幕よっ」
 紬は叫びながら動いた。梓の隙を衝き、渾身の力で腹部を殴る。
喋らせる暇を与えず、意識を落とす心算だった。
「ぐぇっ」
 腹部を抑えながら梓は苦しそうな声を発し、蹲るように身体を曲げた。
顎が浮くその姿勢を、紬は見逃さなかった。
すかさず顎を目掛けて、拳を見舞った。
 梓は足を躍らせながらも、金槌で反撃に転じてきた。
だが、意識が朦朧としているのか、その動きに精彩は無い。
紬は容易く金槌を奪うと、梓の頭部へと打ち下ろした。
今度こそ梓は意識を落とされて、身を崩して床へと倒れ込んだ。
「ムギ……お前……」
 律は呆然とした顔を浮かべて呟いた。
「何なんだよ、一体……」
 何時の間にか上がってきた澪も、声に戸惑いを滲ませている。

185 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:04:47.07 ID:zxd9nZC10
「こうするしか無かった。こうしないと、りっちゃん達が危険だった。
……その辺の事情、全て話すわ」
 律と澪は黙って紬を見詰めている。
二人が大人しい様子を見せている事に紬は安堵した。
自由を取り戻した律と澪から攻撃される危険もあったのだ。
「私はね、りっちゃんの事が好きだった。それは捨てられてからも、ずっと。
そして澪ちゃんの事が羨ましく……いえ、妬ましく……いや、恨めしかった。
そんな時にね、私の元にメールが届いたの。
二人に復讐するプランが書かれたメールが」
 それこそが、協力者からのメールだった。
「それが、今回のゲームか?」
 律からの問いに、紬は頷く。
「ええ。私がその案に乗ることを告げると、
場所の指示や計画の詳細が、メールによって届いた。
必要な道具の提供もしてくれたわ。勿論、私が自前で揃えた道具もあるけれど。
提供された道具の中には、ゲーム中に散々流した例のビデオもあった。
私を含めた女と、りっちゃんが交わる映像の事よ」
 ゲームの前に紬はその映像を、既に観ていた。
その時に、律と交わった彼女達に対する嫉妬心は湧かなかった。
嫉妬心は澪にだけ向けられ、彼女達には寧ろ連帯感や同情心を抱いた程だ。
「あー、あれはムギが撮ったんじゃ無かったのか。
ムギって女同士の恋愛好きだから、お前が撮ったのかと思ったよ。
ああいや、そう思ったのは勿論、ムギがムギソウだと正体明かした後だけどさ」
 律の口調は穏やかだった。
顔に傷を負ったにも関わらず、その事に付いて紬を責める心算は無いらしい。
「私が好きなのは……いえ、好きだったのは、りっちゃんだけ。
確かに百合好きっぽいところは見せてきたけど、それはカモフラージュだった。
って、ごめんなさい、話が逸れたわね。
それで、私は計画を実行に移す事にした。それが今回の、別荘への招待よ」

187 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:06:52.44 ID:zxd9nZC10
「うん、それで私達はやって来た訳だ。
別荘に泊まりに来た事は憶えてる。でも、その後の記憶が曖昧なんだ。
攫われた記憶が無いって言うか、
クロロホルム嗅がされた記憶が抜けてんだよね。
そんな乱暴な事されたら、憶えてそうなもんだけど」
 律が疑問を抱くのも無理は無い。
あの時、紬は本当の事を言っていなかったのだから。
「実はね、クロロホルムなんて使ってないの。
使ったのは経口摂取の睡眠薬よ。
市販薬に含まれる抗ヒスタミンと、処方の睡眠薬のカクテル。
両方とも、私に計画を指示した人から提供された物だった。
それを食事に混ぜておいたの。夕飯のお皿を配ったの、私だったでしょう?」
 律は得心いったように頷いた。
「あー、道理で攫われた記憶が無いワケだよ。
しっかし、眠っている私達を、どうやってこんな所まで運んだんだ?
別荘から近かったとしても、数人掛かりじゃないとキツくないか?
その、お前に計画を送ったヤツが協力してくれたのか?」
 紬は首を左右に振った。
「んーん、一人で運んだ。私に計画を指図した人、
私は協力者と呼んでいるけれど、その人はゲームの間は動かなかったわ。
その正体さえも知らなかった。
でも、一人でも問題無かったわ。此処、見覚え無い?」
「んー?」
 律は唸りながら周囲を見渡す。
「そういえば、どっかで見た事ある風景だな。
かなり前に……」

188 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:08:16.08 ID:zxd9nZC10
 記憶の惹起に苦戦している律を助けるように、紬は口を挟む。
「ここ、りっちゃん達が泊まった別荘よ。
客室ルームじゃなくて、配膳やら倉庫やらの実務スペースだけれども。
此処ってね、厳密には琴吹家私有の別荘じゃなくて、グループの福利厚生施設なの。
利用申請者なんてほとんど居ないから、社内イベント時に使ったり、
倉庫として使ったり、或いは琴吹家の別荘として使ったり、がメインだけど。
この実務スペースにも、りっちゃんや澪ちゃんは以前に何回か訪れたはずよ。
勿論、唯ちゃんや梓ちゃんも」
 律は思い出したようだった。
「ああっ、そうだ。そういえば、唯が迷い込んだ事もあったっけ。
あまり来た事無かったから、思い出せなかったよ」
「無理も無いわ。此処はあまり用がある場所じゃないものね」
 紬がそう言った直後に、それまで黙っていた澪が口を挟んできた。
「確かに来た事のある場所だな。
それで、梓は?どうしてムギと梓は、戦ってたんだ?
梓は一体何なんだ?このゲームと、何か関係があるのか?」
 律もその事が気になっているらしく、真剣な眼差しを紬に注いできた。
「さっきから私の話に出てきてる、協力者。
その協力者の正体が、多分梓ちゃん。
じゃなきゃ、招待していないこの別荘に姿を現す訳が無い。
何が行われているか、知りようも無いのだから」
 紬が答えると、今度は律が問いを放ってきた。
「協力者というか、黒幕の正体が梓だったとして、
どうしてムギを襲ったんだ?
梓が協力者なら、お前達は仲間のはずだろ?」

190 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:09:43.38 ID:zxd9nZC10
「私も仲間だと、初めのうちは親近感すら抱いていた。
けれど、りっちゃんと澪ちゃんの勝利を見て、考えは揺らいだ。
もしかしたら、ゲームクリアの成否に関わらず、
協力者は二人に危害を加える心算じゃないのかと。
これだけ怨念に滾る計画を練った人間が、平和な結末を望むのかと。
そして事実、協力者……梓ちゃんは、危害を加えに来たわ」
「でも……梓は、助けに来ました、とか言ってたけど」
 澪の顔には、不審が表れている。
「りっちゃんと澪ちゃんを騙す為の方便、じゃないかしら。
邪魔な私を排斥する助力を期待できる上に、二人の油断を誘う事もできる」
「本当に梓が、その協力者なのか?」
 澪は未だ半信半疑のように問うてきた。
「その可能性はかなり高いわ。そもそもこのゲームの黒幕は、
りっちゃんの浮気相手の誰かのはずだから。
それは撮られた映像や、ゲームの内容から推量できる。
その条件を満たし、この場に現れた。殆ど梓ちゃんで確定じゃないかしら。
大体、このゲームを知っている人間じゃない限り、
助けるなんて言葉は出てこない」
 今度は律が応じて、顎に手を当てながら言葉を返してきた。
「まー、確かに。それは勿論、ムギが嘘を吐いていないなら、の話だけど。
いや、疑うワケじゃ無いんだけどさ、ムギだけから事情を聞くのも不公へ……」
 律の言葉はそこで止まり、顔には緊張が漲った。
澪の顔も強張っている。
紬とて二人同様、表情にありありと警戒を浮かばせた。
 それは徐々にこの場に近づいて来る、足音に対する反応だった。
紬の口から、思わず独り言が漏れ出る。
「もう誰も、居ないはずなのに」

192 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:11:51.23 ID:zxd9nZC10
 ゲーム参加者である律と澪、進行役を務めた紬、そして黒幕と思しき梓。
これで全ての役者は出揃ったはずだと、紬は疑っていなかった。
だからこそ梓の意識を断った段階で、安堵していた。
だが今更になって、見落としていた可能性に思い至る。
それは協力者が一人とは限らない、という事だった。
「まだ誰か、居る」
 紬が確認するように呟いた時だった。
足音の主が、壁の影から姿を現した。
「唯ちゃん……」
 紬は呻くように、その名を呼んだ。
「何で澪ちゃん、裸なのかなぁ?
ショーツ一枚のりっちゃんに、何をする気なのかなぁ?」
 唯は顔を俯かせたまま、視線だけこちらに向けてきた。
その視線も声も、酷く暗い。
そして、唯が握っている木製の長い棒に、紬の警戒心はいや増した。
「こんな所に居たんだね。一つ下の階に行っちゃってたよ。
エレベーターの中に居ると思っていたら、中から物音がしなくなって。
代わりに、上から騒々しい物音や声が聞こえてきて、ね。
来てみたら、りっちゃんがショーツ一枚で……」
 話す唯の瞳が薄暗さと険しさを増した。
梓と紬の騒動の音を聞いて、
一階エレベーター前から唯は移動してきたらしかった。
手に持っている棒も、その過程で手に入れたのだろう。
実務スペースであるが故、凶器に代用できる道具の入手も難しくは無い。
「ねぇ、ムギちゃん、澪ちゃん。りっちゃんは、私のものなんだよ?
分かってる?ねぇ?分かってる?分かってないよね?」

195 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:13:47.37 ID:zxd9nZC10
 壊れたように言葉を放ちながら、唯はゆっくりと近付いて来た。
唯が梓と協力していたのか、それとも唯こそが黒幕なのか、紬には断じかねた。
だが、自分達に危害を加えようとしている事くらい、
梓の時と同じく容易に理解できる。
だから紬は制止の声を上げた。
「唯ちゃん……もう、止めましょう?
二人は勝ったの。私達は負けたの。
りっちゃんには、澪ちゃんが居るんだから」
「駄目。りっちゃん、言ってたもん。
私の事、捨てないって。私の事、特別だって。
そうだよね?りっちゃんっ」
 唯は表情を明るく転じ、律に視線を向けた。
「唯……」
 唯の視線を受けた律は苦しそうに呟き、俯き加減に目を逸らしていた。
「どうして目を逸らすの?りっちゃん、嘘だったの?
捨てないよね……私の事。
だって、りっちゃんって本当は、私に未練あるんでしょ?」
 縋るような声で問いかけながら、唯が一歩また一歩と迫って来る。
言葉を返せず黙りこくる律に代わって、紬が答える。
「あのね、唯ちゃん。りっちゃんにとって特別な存在は、澪ちゃんなの。
残念ながら、私も唯ちゃんも、りっちゃんを射止める事はできなかった。
そういった意味では、私も唯ちゃんと同じ仲間よ。
澪ちゃんだけがり」
「うるさいっ」
 棒を乱暴に振り回しながら、唯は激しく叫んで紬の言葉を遮った。
「っ」
 振り回された棒が腕に当たり、紬は痛み故の絶句を漏らした。
唐突な攻撃だったとはいえ、紬は己の油断を悔いた。
既に棒が当たる位置まで、唯は近付いて来ているのだ。
いつ攻撃を浴びてもおかしくない、という認識が必要だったはずだ。

197 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:15:20.34 ID:zxd9nZC10
「あのね、ムギちゃん、あんまり調子のいい事言わないでもらえるかな?
仲間?笑わせないでよ。んーん、違うね、これ以上怒らせないでよ。
仲間だと言うのなら、ムギちゃんは裏切ってる。
ムギちゃんは澪ちゃんと同じで、りっちゃんを誑かす悪女だもん」
 唯の言う裏切りとは、律と澪を助けた事を指しているのだろうか。
それとも、梓を斥けた事を指しているのだろうか。
或いは、律と澪の仲を認めた事を指しているのかもしれなかった。
 だが紬は、裏切ったのは寧ろ唯達の側だと思った。
律と澪の二人は定められた条件通りに、ゲームをクリアしている。
にも関わらず襲撃するなど、信義に悖っているとしか感じられなかった。
クリア直後とあれば尚更の事だ。
 尤も、今その事を指摘しようとは思わなかった。
感情が昂ぶっている唯に対し、論理が通用するとは思えない。
逆に正論であるからこそ、唯の言葉を封じて暴力を誘発する危険があった。
極度に感情的になった人間が、言い返せない時に用いる手段など決まっている。
勿論、誘発せずとも唯は暴力を用いるだろう。
だが、説得の最中に再び不意を衝かれる事は避けたかった。
だから紬は、唯の話を無視して警告のみ口にする。
「唯ちゃん、これ以上近づかないで、足を止めて。
それ以上近づいたら、実力で排除するから」
 唯は紬の警告を受けて尚、歩みを進めてきた。
「唯ちゃんっ」
 紬の叫喚など聞こえないかのように、唯は棒を持つ腕を振り上げた。
構えた棒の先には、目を見開く澪の姿があった。
その澪に向けて、唯の口から言葉が放たれる。
「りっちゃん、ずっと一緒だよ。澪ちゃんはバイバイ」
 物理的な排除を躊躇う事は、既に限界に達している。
紬は警告を実行に移すべく、梓から奪った金槌を振り上げた。

208 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:24:40.03 ID:S9cKBqsw0
「その前に、お邪魔な裏切り者は黙っててね」
 唯の振り上げた棒は澪へと打ち下ろされず、
方向を変えて紬の頭部へと打ち下ろされてきた。
咄嗟に腕で頭を庇うが、痛みと衝撃で金槌が手から離れて床へと落ちる。
金槌が床に転がる音を響かせる頃には、
既に唯は次の攻撃を繰り出す体勢を取っていた。
それは両腕を引き、棒を水平に寝かせる姿勢だった。
避ける暇も無く、その攻撃が放たれる。
両腕が伸ばされ、棒の先端が紬の鳩尾へとめり込んだ。
「ぐぇっ」
 紬は無様な呻き声を上げて、腹部を抑えて蹲った。
早く体勢を立て直さなければ、上から滅多打ちにされる。
紬はそう思い、必死に立ち上がろうとした。
だが、押し寄せる痛みによって、立ち上がる事さえままならない。
歯痒い思いと恐怖を抱えながら、紬は唯を見上げた。
想像に反して、唯は紬に追い討ちをかける体勢を取ってはいなかった。
それどころか、唯は既に紬など見てさえいない。
怨嗟と敵意が篭った唯の眼差しは、澪へと向けられている。
「澪……ちゃん……逃げて」
 叫びたかったが、痛みに阻まれ小さく断続的な声しか出せなかった。
「逃がさないよ」
 唯は棒を振り上げて、澪を目掛けて打ち下ろした。
鈍い音が響き、澪が床に転がった。
それでも紬は安堵していた。
対照的に、唯は不機嫌そうな表情を浮かべ、舌打ちをしている。
唯の放った一撃は空振り、棒は床を打ちつけていたのだ。
避ける際に勢い余って転びはしたが、
運動神経の良い澪ならすぐに体勢を立て直すだろうと紬は考えていた。

213 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:27:19.69 ID:S9cKBqsw0
 しかし、澪は起き上がろうとはしなかった。
紬はその原因に気付き、青褪めた。
唯も気付いたのか、不機嫌そうな表情が上機嫌なものへと転じている。
「つぅっ」
 転んだ際に捻ったのか、澪は足首を抑えて呻き声を上げていた。
「ほらね?神様も澪ちゃんを罰したがってるんだよ」
 唯は再度、棒を振り上げた。
それが振り下ろされた時、澪が避けられるとは思えなかった。
とは言え、紬の鳩尾には未だ痛みが疼いており、
立ち上がって妨害する事は困難である。
 だが、痛みが緩和してきている今なら、全く動けない訳では無い。
紬は屈んだ姿勢のまま、転がるように唯の足へと飛び込んだ。
今度は唯が不意を衝かれる恰好となった。
「えっ?」
 驚愕の声を上げながら、唯は姿勢を崩して床へと倒れ込む。
その際に唯の手から離れた棒も、鈍い音を響かせて床に転がった。
そして紬は転んだ姿勢のまま、立ち上がらせないよう唯の両脚を抱え込む。
「邪魔しないでよ、ムギちゃん」
「言ったでしょ?近づいたら実力で排除するって」
 苛立たしげな唯の声にそう返したものの、紬の身体とて万全では無い。
鳩尾への一撃のみならず、梓に打たれた部位も痛みを訴えている。
それでも自由にはさせまいと、唯の足を抱き続ける。
「あー、もうっ」
 唯は焦れたように声を上げると、右手を床に這わせた。
紬が意図を察した時には、唯の右手に金槌が握られていた。
先程、紬が落とした金槌だった。
「邪魔っ」
 頭部を金槌で打たれて、紬は再び蹲った。
唯の足に密着した体勢では、避ける事も防ぐ事もできなかった。

215 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:29:06.61 ID:S9cKBqsw0
「手間取らせないでよ」
 紬の拘束を脱した唯は一言呟くと、上半身だけ起こした。
そして、床に転がっている棒へと腕を伸ばした。
金槌よりも長い分、棒の方が澪を攻撃し易いと判断したのだろう。
紬は蹲った姿勢のまま、唯の動作を見ていた。
 だが、唯の手が棒を掴む事は無かった。
唯の手が棒に触れる寸前に、律が棒を取り上げていたのだ。
唯は一瞬、驚愕を表情に浮かべたが、すぐに納得したように頷いていた。
「あ、そっか。そうだよね。
りっちゃんも漸く気付いてくれたんだね。誑かされていた事に。
自分で始末付けたいんでしょ?いいよ、譲ってあげる。
どうぞ、思う存分、悪女の澪ちゃんを打ちのめしてよ」
 律は何かを逡巡しているかのような、煩悶の表情を浮かべている。
勿論、澪を打つか打つまいかを迷っている訳では無いと、紬には分かっていた。
一方で唯は、律の表情を澪への攻撃に対する逡巡と解しているらしかった。
「あ、最初の一撃躊躇ってる?
そうだよね、付き合ってたもんね。躊躇うのも無理は無いよ。
だから、私から打とうか?順番で澪ちゃんやっつけようか。
その次は、ムギちゃんだね」
 言い終えた唯は律の返事を待たずに、金槌を手に立ち上がろうとする。
その姿に向けて、律の口から苦しげな声が放たれた。
「ごめん……唯……」
 続いて響く、低く鈍い音。
「え?」
 唯は立ち上がる事無く、額を手で押さえて訝しげな声を上げていた。
その口は呆けたように開かれ、目も大きく見開かれている。
律から打たれた事に、認識が追い付いていないのだろう。

218 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:30:33.73 ID:S9cKBqsw0
「本当にごめんな、唯」
 再び律が棒を振り上げ、唯の華奢な肢体へと打ち下ろした。
「痛い……痛いよ、りっちゃん。何するの?どうしちゃったの?
私じゃないよ?澪ちゃんをやっつけるんだよ?」
 二度目の打擲を受け、漸く打たれた認識が芽生えたようだった。
だが、どうして打たれたのか、その理解まではできていないらしい。
「私は澪を打てないよ。だって、澪の事が好きなんだ」
「そっか。まだ澪ちゃんから誑かされてるんだね。
早く澪ちゃんをやっつけないと」
「駄目なんだよっ、唯っ」
 再び立ち上がろうとする唯に、律はまたも棒を打ち下ろした。
臀部を地に付ける唯に対し、律は縋るような声で言葉を放つ。
「頼むから、放っといてくれ。私の事なんか構わずに、幸せになってくれ。
なぁ、私は澪が好きなんだ。だから……危害を加える人間には、
防衛行為を取らざるを得ないんだよ。
嫌なんだ、これ以上は唯を傷付けたく無いんだよ。だから、頼むよ……」
 途端、唯の激した声が轟く。
「何それっ?そんなの、酷いもん。
それって、私より澪ちゃんを優先するって事でしょ?
そんなの、絶対許せないっ」
 唯の言う通りだった。
澪を守る為ならば、傷付けたくない対象である唯だろうと排除する。
それは即ち、澪が唯よりも大切な事を意味している。
律に恋情を抱く唯にとって、これ以上の屈辱は無いだろう。
唯は続けて言う。
「うん、絶対許せない。
だって、りっちゃん、私の事、特別だって言ったもん。
きっと澪ちゃんとムギちゃんに騙されてるんだ」

219 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:32:26.85 ID:S9cKBqsw0
 尚も立ち上がろうとする唯に対して、律は棒を振り下ろした。
「頼むから止めてくれっ」
 唯は打たれた肩を抑えながら、律に向けて言う。
「無理だよ。りっちゃんを澪ちゃんから取り戻さないと」
 律の瞳から、涙が零れた。
覚悟が決まった瞬間なのだろう。
「本当にごめん、唯。私が悪いのは分かってる。
お前だけじゃない、色々な浮気相手を作って、お前達を苦しめてきた。
それでも私は……澪が一番大事だから。本当に、ごめん」
 律は涙ながらに、棒を振り下ろした。
唯の口から短い悲鳴が漏れたが、律は更に続けて棒を打ち下ろす。
そして、更に打擲、打擲、打擲。
「痛いよ、りっちゃん。止めてよ。
私はりっちゃんの事が好きなのに、
りっちゃんも私の事を好きだって言ってくれたのに、
どうしてこんな事するの?どうしてこんな事ができるの?」
 唯は痛みに喘ぎながら、言葉を紡いだ。
それでも律の打擲は止む事が無かった。
「ごめん、ごめん、ごめん」
 涙混じりに謝りながら、唯へと棒を打ち下ろし続けている。
「痛いよお、りっちゃん、痛いよう。
セックスの時とは違うもん、あの時は愛があったから、痛くても良かった。
でも、こんなの違うもん。こんなの、澪ちゃんの為だもん。
だから、止めてよ、痛いよ、痛いだけなんだよ。
りっちゃん、心も痛いんだよぉ……」
 唯は身体を丸めて蹲り、涙を溜めた瞳で律を見上げて言った。
それでも、律は打つ事を止めなかった。

222 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:34:57.06 ID:S9cKBqsw0
「ごめんな、ごめんな、本当に……ごめん」
 澪の為に自身の顔を傷つけ、友人すら傷付ける律。
その姿に、紬は途轍もない悲しみを覚えた。
そして、今打たれ続ける唯の姿は、
もしかしたら自分がそうなっていたかもしれない姿でもあるのだ。
紬は戦慄と悲しみを抱きながら、ただ見ていた。
「りっちゃん、止めてよぅ……痛いよぅ……りっちゃん……。
痛いよぅ」
 唯は泣いていた。泣きながら、痛みを訴え続けていた。
律も泣いていた。泣きながら、痛みを与え続けている。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「痛いよぉ、痛いよぉ、痛いよぉ」
 打擲は、唯の口から言葉が途絶えるまで続いた。
 言葉を発しなくなった唯を、律は荒い吐息を繰り返しながら見つめた。
「本当にごめん、唯」
 律は涙混じりに呟くと、青褪めた顔を澪へと向けた。
「澪……私、私……」
 そこまで言って言葉に詰まった律は、澪の胸へと雪崩れ込んだ。
澪は優しく律を抱き止めて、頭を撫でていた。
「澪、私、私っ」
 尚も言葉を詰まらせる律に、澪は励ますように言葉を掛けている。
「大丈夫、大丈夫だから」
 その二人に言葉を挟む事が躊躇われたが、紬は結局言った。
「ごめんね、りっちゃん、澪ちゃん。
何時までもこうしている訳にはいかないわ。
取り敢えず、二人の服と、それと梓ちゃんと唯ちゃんを拘束しないと。
意識を取り戻した時、また暴れないとも限らないし」
 梓はともかく、唯に気力が残っているとは思えなかった。
だが、警戒は必要だろう。

223 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:36:45.62 ID:S9cKBqsw0
「唯は……大丈夫なのか?」
 律の声は心配そうだった。
「死んではいないわ。死に至る重症でも無いと思う……多分ね」
「そっか、良かった。ムギは、ムギは大丈夫か?」
 律が自分の身を案じてくれた事が、紬は少なからず嬉しかった。
「ありがとう。私は大丈夫よ、まだ身体中痛むけれど。
ちょっと二人は此処で待っててもらえる?
唯ちゃんと梓ちゃんを一先ず拘束するシーツか何かと、
りっちゃんと澪ちゃんの替えの服を取ってくるわ」
 そう言って紬は立ち上がった。
泊まる為に持ち込んだ着替えを含めて、
律と澪の荷物は紬が監視場所として使用していた部屋に置いてある。
身体の痛み故に足取りは覚束ないが、時間を掛ければ部屋まで辿り着けるだろう。
「いや、私が行くよ。だから場所だけ教えてくれ」
 律は紬を気遣うように口にしていた。
「悪いわ、私のせいでもあるんだし」
「いや、私のせいだよ。唯も梓もいちごも、そしてお前も悪くない。
だから、私が行くよ。
何より、ムギは怪我してるし、澪だって足を捻ってる。
私しか、居ないだろ?」
 律の申し出は有難かった。確かに、身体中が痛みを訴えている。
律とて精神的に辛い部分が多々あるのだろう。
だが、だからこそ動きたいのかもしれなかった。
「有難いわ。でも、やっぱり私だって悪いのよ。
唯ちゃんも梓ちゃんもいちごちゃんも含めて、
澪ちゃんを裏切ってたんだから」
 紬はそれだけ言い含めて、部屋の場所を教えた。
加えて、唯と梓を拘束する為に、シーツも持ってくるように頼んだ。

226 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:39:16.61 ID:S9cKBqsw0
「ああ、そう複雑なコースでも無いな。そらで憶えられるよ。
行ってくる、ちょっと待っててな。それと、澪の事頼むわ」
 紬は頷くと、律を見送った。
そして、梓と唯に視線を向かわせる。
ハンカチか何かで、手だけでも拘束しておいた方がいいと判断したのだ。
また、容態も確認しておきたかった。
 まずは梓に向かうと、顔色や呼吸を確認した。
暫く起きそうな気配は無いが、命に別状は無いだろう。
ハンカチで手を縛ると、ふとポケットの膨らみが目に入った。
探ってみると、携帯電話と財布があった。
財布に興味は無いが、携帯電話には興味がある。
もしかしたら、メールの送受信記録や着信履歴に、
梓や唯がゲームの黒幕である証拠があるかもしれないと思ったのだ。
 プライバシーの侵害が気になったが、どうせこちらは情事まで撮影されている。
お互い様だと胸中で言い訳して、メールの受信ボックスを見た。
「梓ちゃんは……協力者では無かったのか」
 差出人不明のメールを見て、紬は然程意外でも無さそうに呟いた。
その文面には、こうあった。
『田井中律と秋山澪が、琴吹紬が主催する悪趣味なゲームに巻き込まれる。
それを解決できれば、田井中律からの歓心を買えるだろう。
ただし、助けるタイミングを誤ってはいけない。
もし間違えれば、二人の命が危険に晒される』
 続いて、この別荘の住所とゲーム開催の日付が書いてあった。
メール自体の着信日付は、昨日だった。

230 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:41:08.33 ID:S9cKBqsw0
「唯ちゃんが黒幕、か」
 紬は呟く。
唯が梓にメールを送って乱入させたのだろうと、紬は推測した。
送信者のメールアドレスは、携帯電話のプロパイダメールでは無く、
フリーメールのものだった。
唯が送ったかどうかの証明はできないが、消去法的に考えた結果だった。
加えて、律に対する執着は、浮気相手の中で唯が一番強かった。
 紬は次に、唯の元へと移った。
顔色は悪いが、呼吸までは途絶えていない。
取り敢えず手を縛ろうと、唯のポケットを弄った。
自分のハンカチは、梓の拘束に使っている。
だから唯のハンカチで代用する心算だった。
 その時、手が固い物体に触れた。
それは携帯電話だった。
梓への連絡や紬への指示には、フリーのメールアカウントが使われていた。
故に期待薄だと分かっていたが、梓の時と同様にフォルダを調べた。
「えっ?」
 程なくして、紬は絶句を漏らした。
その原因は、受信フォルダにあった一通のメールだった。
『田井中律を、秋山澪と琴吹紬が誑かそうと画策している。
田井中律は貴女のものの筈だ。
だが田井中律は、琴吹紬の別荘で、性欲の餌食にされようとしている。
琴吹紬と秋山澪によって、田井中律は犯される。
貴女は田井中律を取り戻さなくてはならない』
 梓の時と同様、この別荘の住所と今日の日付が書いてあった。
送信者のメールアドレスは、梓に送られたメールと同じだった。
「どういう……事?」

231 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:43:43.61 ID:S9cKBqsw0
 唯もまた、詐言を受けて操られていたに過ぎない。
その唯こそが黒幕だと思っていた紬は混乱に陥った。
だが、すぐに混乱から脱し、黒幕の正体を導き出す。
消去法で考えれば、もう一人しか居ないのだ。
 紬は自分の携帯電話を取り出すと、彼女の番号へと発信した。
彼女の電話番号を、紬はつい最近まで知らなかった。
昨日、眠っていた律の携帯電話のアドレス帳から、入手したばかりである。
 すぐにその相手は着信に応答した。
「もしもし?」
「どうも、琴吹紬よ。
いちごちゃん、貴女が黒幕だったのね。協力者の正体だったのね」
 相手は、若王子いちごは、沈黙を返してきた。
その沈黙こそが答えである気がしたが、紬は敢えていちごの返答を待った。
「……何の話?」
 少し経って、いちごの訝しげな声が返って来た。
「惚けないでっ。今回のゲームよ。
貴女が、裏で糸を引いていたんでしょう?
それで、今は何処に居るの?この建物内に、潜んでいるのかしら?」
 紬は苛立たしげに問いかけた。
「だから、何の話だか分からない。錯乱でもしてるの?
忙しいから、切るよ?これから病院行かなきゃならないし。
何なら一緒に行く?診療科は違うだろうけど」

233 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:45:10.18 ID:S9cKBqsw0
「惚けるのもいい加減にして」
「惚けてなんか無い。本当に最近は厄続きね。
この前は自転車で転んで怪我するし、そのせいで病院通い。
そして今度は、紬が訳の分からない事を言って絡んでくる。
マイナスのサイクルもいい加減にして欲しいな。
ていうか、何処で私の番号知ったの?」
 律の浮気相手の一人という事で、
念の為と自分に言い聞かせて入手しておいた番号。
それは律のプライバシーへと踏み込む自分に対する言い訳であり、
本当に使う事になるとは思っていなかった。
 勿論、その事をいちごに伝えはしない。
いちごの問いには答えず、追及のみを続けた。
「自転車で転んで怪我?見え透いた嘘言わないで。
貴女が今回のゲームの」
「もう、付き合ってられない。
何処で私の番号知ったのか分からないけど、もう掛けてこないで」
 いちごは紬の言葉を遮ってそれだけ言うと、一方的に電話を切った。
紬は怒りと警戒の綯い交ぜになった思いで、リダイヤルしようと試みる。
だが、その手は不意に止まった。
紬の脳裏に、大きな疑念が過ぎったのだ。

235 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:46:19.48 ID:S9cKBqsw0
 いちごと紬は、それ程親しかった訳では無い。
故に、この別荘へと招いた事が無かった。
そのいちごが、果たして今回の計画を思い付くだろうか。
別荘の構造さえ知らないいちごに、考え付けるだろうか。
少なくとも、エレベーターの存在を知らない限り、
その中に注水するなど考え付けるはずもない。
 また、いちごは梓とは殆ど面識が無かった。
面識のある唯や紬とさえ、電話番号の交換をしていない。
いちごが黒幕だと言うのなら、どうやって梓とコンタクトを取ったのだろうか。
 疑念を深めた紬は、今まで見落としていた問題にも気付いた。
それはいちごに限った話では無く、紬をすら含めた話だった。
もし黒幕が律の浮気相手の中に居るのならば、
自身と律の場面をどうやって撮影したと言うのだろうか。
リスクを冒して、誰かに頼んだのだろうか。
 疑念の中で紬は、別の可能性に思い至った。
──黒幕は律の浮気相手の中には居ない──
「いちごは私とそれ程親しく無かったから、裏切られたって感じはあまりしなかった。
だから、自転車に細工する程度で許してあげたよ」
 その時、後ろから低い声が聞こえた。
紬が反射的に振り返ると、
立ち上がった澪が勝ち誇った笑みを浮かべて見下ろしている。
足など始めから捻っていないような、自然な姿勢だった。
 実際、歩みを進めてくる澪には、
足を庇うような仕草は一切見受けられない。
裸体を恥じる事の無い、堂々とした闊歩だった。
悠然と澪は、続けて言い放つ。
「律との絆を確かめる事ができたよ」
 途端、紬の脳裏に記憶の奔流が押し寄せた。
それらは全て、澪の発言だった。

236 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:48:00.58 ID:S9cKBqsw0

『律だけ愛してきた。律だけ愛してる。律だけ愛していく』
──律に対する凄まじい執念。

『律の言う通り、企画した奴はきっとすぐ側でゲームを見てるんだろう』
──澪は律の最も側に居た。

『お前が誰かと浮気しているんじゃないかって、疑ってたんだ』
──澪は律の浮気に気付いていた。

『律の事、ずっと見てきたから』
──だから澪は律の浮気を撮影できた。

『夜も眠れず……精神科にだって通ったくらいなんだ』
──紬に届けられた睡眠薬の入手経路。

『律は怪我してるし……それも私のせいで』
──文字通りの意味。

『確かに来た事のある場所だな』
──エレベーターの存在を知っていた者。

『律との絆を確かめる事ができたよ』
──ゲームのテーマは絆。ゲームの目的は二人の絆を確かめる事。
その必要に最も迫られていた者とは──

241 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:50:41.86 ID:S9cKBqsw0

「いやあああああっ」
 紬の口から絶叫が漏れた。
発作的に唯の手から金槌を引っ手繰って、澪へと向ける。
協力者の正体に気付いた衝撃を、口から迸らせたまま。
黒幕は、ゲームをコントロールできる位置にずっと居た。
姿を見せなかったのでは無い、見せられなかったのだ。
 澪は事も無げに紬の手を払い、金槌を叩き落して言う。
「律が私から離れて、浮気相手の所に行くんじゃないかと不安だった。
気が狂いそうだった。
でも、今回の件で、私達の結び付きは強くなった。
これでもう、律は浮気しない」
 言葉を放ちながらゆっくりと迫ってくる澪に合わせて、
紬は腰を地に付けて後退する。
「あ……ああ……全部……演技だったの?」
 恐怖を隠せず、紬の問う声が震えた。
「ほとんど本音だったよ。
実際、律が私を信じさせてくれないなら、一緒に死のうと考えていた。
私は律の為に大切な何物をも、例えば自分の親友でさえ犠牲にできる。
そして今回、犠牲にした。
律がそれに値するやり方で私を信じさせてくれないなら、
あのまま一緒に死んだ方が良かった。
でも、顔を犠牲にしてくれた。その後、親友までも。
ああ、足を捻ったのは演技だけどね」
 後退していた紬の指が、縁に触れた。
それは、エレベーターの縁だった。
「言ってやるっ。りっちゃんに、言ってやるんだからっ」
 追い詰められた紬は、恐怖と怒りを織り交ぜて叫んだ。
しかし、澪は全く動じなかった。

242 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:51:51.56 ID:S9cKBqsw0
「それは名案かもな。ムギの眼前で律に打ち明けてみようか」
 紬は咄嗟に叫ぶ。
「嫌っ。見たくないっ」
 真実を知った今、澪に律を渡したくは無かった。
だが律は、澪の為に顔を傷つけ、大切な友人であり嘗て愛した唯を傷つけた。
それら犠牲を正当化する為には、もう澪を愛し続けるしかない。
澪の悪辣な部分を今更見た所で、もう引き返せない所まで来ている。
だから律はきっと、澪を愛し続けるだろう。
それは紬にとって、絶対に見たくない場面だった。
 紬は話題を変えようと、続け様に叫ぶ。
「澪ちゃんっ。唯ちゃんや梓ちゃんが可哀想だと思わないのっ?
りっちゃんを騙して、悪いと思わないのっ?」
「唯と梓は、親友や妹だと思っていたのに、私を裏切った。
その罰だよ。お前がゲームの規定から外れて、
私達を救助しない時の保険でもあったけど。
律に付いては……そうだな、確かに騙していた事は悪いかもな。
だからやっぱり、打ち明けよう。勿論、お前の眼前で」
 再び戻ってきた話題に、紬は激しく首を振って返す。
「嫌っ嫌っ嫌っ」

243 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:52:38.63 ID:avVOuY3i0
黒幕多すぎわろた

246 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:53:04.19 ID:S9cKBqsw0
「提案したのはお前だよ。
それに、見続ける事が、私を裏切り律に手を出したムギへの罰だしね。
だから、大人しくしてな」
 澪の足が蹴るような勢いで、紬を強く押した。
紬の後方は、エレベーターの籠へと落ちる空間だった。
「あっ」
 紬は身体が宙に浮く感覚を味わった。
その感覚は長く続かず、水面を破る音と共に水の感覚へと変わる。
飛沫の向こうに、縄梯子を引っ張り上げる澪の姿。
紬は慌てて手を伸ばすが、間に合わなかった。
 呆然と上を見上げる紬に対し、澪の冷たい声が降ってくる。
「絆を深めた私と律の関係は、幸せなものになるだろう。
生きている事に感謝できるくらい、幸せなものにな。
お前は律を誑かし、幸せから遠ざけていた。
その自分の罰から逃げるなよ、ムギ」
 紬は見ていた。
両腕を広げ、左右の扉を掴む澪を。
 紬は見ていた。
抱くような動作で、勢い激しく扉を閉める澪を。

248 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/08/15(月) 00:54:29.23 ID:S9cKBqsw0
.

.
 律と澪を左右半々に模して作った人形が、ディスプレイの端に映っている。
監視に使っていた部屋から、澪がライブ映像の送信を始めたのだろう。
紬がゲームの開催を告げる時に、そうしたように。
 絶望が届けられるライブ映像を、紬は見ていた。
律に全てを打ち明ける、澪の姿を。
その後に裸のまま抱き合う、律と澪の姿を。
律の顔の傷痕を愛しそうに舐める、澪の姿を。
真相を語った澪を受け入れる、律の姿を。
 そして律の放つ言葉が、スピーカーを通じてエレベーター内に響く。
『ムギより澪の方が好きだよ』
「やめてえぇっ」
 紬は耳を塞ぎ叫んだ。
それでも、目を閉じる事はできなかった。
絶望から目を逸らす事ができなかった。
澪の放った罰という言葉に、精神が拘束されていたから。
だから、紬は見続けた。
自分よりも澪を選ぶ律を──
幸せそうな澪の笑みを──
律の顔の傷を──
二人の絆を──
紬はそう、見ていた。

<FIN>

No related posts.

Write a comment